反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。二人の、アングル違いな二つの切り口で“真如苑”の闇を露わに語ります。

緋色さんのブログを拝見して思うこと


反 真如苑 新興宗教に嵌った信者を親に持ち。 ある信者さんの思考について・2 


緋色さんの主旨と、私のアンテナに引っ掛かった部分とは相違しているかもしれません。

私がこの記事に対して深堀りしたいのは、下記の部分なのです。

>理解しなくて、結構です、死ぬまで理解しないでアンチ活動を続けて下さい。
>仕方ありませんが、苑を外から見て教えを理解しようとしても不可能です、
>永久に理解出来ないままアンチ活動を続けて下さい。

上記は、随分とまぁ酷い言葉だなぁと思うのです。

ちなみに・・・ですが、緋色さんは単に「苑を外から見ていた」というわけではないはずです。実際に苑に出向き、事務局員とやりとりも交わしているのです。ですから『苑を外から見て教えを理解しようとしても不可能です』という言葉は、日本語として間違えているのです。この場合は『苑の教えを実際にやらないで(歩まないで)、教えを理解しようとしても不可能です』というのならば言葉としては合致しています。ただし、この発想(歩まなければ判らない)ということ自体が、如苑の虚偽性に直結していることですから、信者は自ら墓穴を掘っているのです。それに気づかずに鼻息荒く語っている姿は滑稽としか言いようがありません。

さて。この方は信者で
>私は、真如苑の教えには微塵の疑問も不信感も持っていません
と自ら書いているのです。

だとしたら、この方にとっての“三つの歩み”とは、一体何なのでしょうか?
“人類、地球、宇宙を救う”というスローガンは、この方に一体何をもたらせているのでしょうか?

真如苑が唯一無二で、それだけが素晴らしい教えだからこそ、この教えでしか救われないのだと信者はだまされている信じているのです。その、究極の教えをぶら下げておきながら「死ぬまでアンチの活動を続けてください」と言える神経が、私には理解できないのです。

この方が“三つの歩み”を行う時には、緋色さんや私は“お救け”から除外されるのでしょうか?
以前にも記事にしましたが、私が谷居と名乗ってこの方の所に行けば、リジェクトされてしまうことでしょう。所が私が谷居という名を伏せ、とあることで深い悩みを抱えたままで、この方のお隣に引っ越したとします。近所づきあいの手前、そこで私がこの方に悩みを打ち明けるのです。そうすると、私はこの方にとっては“お救け”の対象者へと変身するというワケです。

信者の都合によって、コロコロと非勧誘対象者が勧誘対象者へと変わるものなのでしょうか?

この方がアンチ真如苑一派に対して吐く毒は、真如苑という“村”の外に向かって吐かれる毒なのですが、真如苑は三つの歩みの中にある勧誘ノルマによって、村の外にいる人たちを村の中に引き込まなくてはいけないのです。その時に、かつて自分が吐いた毒が残っているかもしれないという想像力は、この方には決定的に欠落しています。いつしかその毒が、自分の村の中に入ってくるかもしれないという考えは、一切抱かないのでしょう。まぁ何と言うか、大バカ者楽天家とでもいいましょうか。。。


真如苑の活動(信仰)を俯瞰してみると、首尾一貫という言葉がまるで当てはまらないのです。大スローガンを掲げ、あまねく一切を救うと言いながらも、二枚目の舌では「死ぬまでアンチの活動を続けてください」と言うのです。「真如苑の教えには微塵の疑問も不信感も持っていません」と言いながらも、アンチ一派には“お救け”を試みようとしないのです。真如苑の教えの根幹に、“三つの歩み”があるのに、です。

二枚舌を使い、自分が所属するテリトリーの外に対しては毒を吐いておきながら、他人に対しては「赤い色のサングラスをかけていれば、真っ白な物も赤く見えてしまいます」などと言って、それが説得力のある言葉だと思いこんでいる浅ましさ。本当にこの方は単細胞愚直とでもいいましょうか。。。

赤いサングラスをかけていても、「赤く見える」という白いものは、普通は“白”として認識するものです。赤く見えるのはあくまでも表面上のことであって、白はどこまでいっても白なのです。この方の理論では、白は普遍の白ではなく、掛けるメガネでコロコロと赤にも黄色にもなってしまうのです。それはこの方が“白”と主張する真如苑に普遍性がないということを自ら主張していると言っても良いのだと、私には思えます。<谷居>

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善と悪とのコントラスト

真如苑の最大の特徴は“接心修行”にあります。
『顔についた汚れは鏡を見なくては気づく事ができない。心についた汚れもまた、霊能の鏡を通さなければ見る事ができない』という理屈が、その根底にあります。

この理屈は、“心が汚れていること”が大前提です。

人の心などは、3歳児を過ぎればある意味汚れていくものだと私見ですが思います。生まれたままの、無垢な心を持つものが天使であり、その天使に羽があるのだとしたら恐らく3歳児までは私の背中にも羽が生えていたと確信するのです。けれども残念ながら、その年齢を超えた頃からはその羽も腐って落ちていってしまったことでしょう。世間の影響に晒され、心も考え方も徐々に世間ズレして行くのです。「親孝行は3歳までの無垢な時に済ませた」という考えが、私の青春時代の親に対する言い訳でした。今はもう、こんなに心が汚れてしまったけれども、純真無垢な時代に親を喜ばせてあげたのだという、ある種のひねた考えをその頃の私は持っていました。

実際には子供は、いくつになってもその存在自体が親孝行なのだと今は思います。いつまで経っても、何年過ぎても天使の羽を望む親などいるのかしら?というのが、私の思いです。


“仏性を磨く”とか“心をキレイにする”などと、真如苑信者は言います。先出の記事にも書きましたが“性格を変える”というのもあります。

真如苑の前提は、いつもいつもそうなのですが、此方サイドにある種の“負い目”があることから始まります。“心が汚れている”とか“因縁の苦しみ”とか“ご先祖の苦しみ”とか“心癖”とか“世間法に流される”などです。
それらは、前提として此方サイドが“悪”なのです。そしてそれに対しての“善”とは、真如苑の活動(信仰)という位置づけになっています。もし勧善懲悪のストーリーがあるのだとしたら、さしずめ“ニョエンマン”という正義の味方が、“ガシュウ(我執)”という悪を倒しに来てくれるような、判り易いストーリーです。

けれどもこの勧善懲悪は、実のところは単なるコントラストでしかありません。此方サイドの事情や都合を“負い目”に仕立て上げることによって生じる“悪”というカラーが、「その対極ですよ」と主張する真如苑の言葉を“正義”に見せているだけに過ぎません。本当の“悪”とは人道に背くことであり、法律に抵触することであり、自らを含め“人”に危害を与えるものなのです。自分の都合や、心の在りようが“悪”になる道理など、本質的にはどこにも無いはずなのです。
それでも、真如苑は此方サイドをトコトン“悪”と位置づけます。更にその挙句には、悪の原因を霊に転換して“信仰障害霊”というキャラクターを出現させる体たらくです。全く以って、どこまで人を騙せると思っているのやら、却って此方が心配してしまうほどのデタラメな理屈がそこにあります。

真如苑には“筋の通った理屈”などは存在しません。デタラメなそれは、“体解”という如苑ローカルなルールを運用することによって、信者騙しを継続させています。「頭で考えるのではなくて、実践することによってのみ理解できるもの」というローカルルールです。それはただひたすらに、一点を磨き続けることによって辿りつける境涯のようなものでしょう。そのひたむきな気持ちというものは、ある種の美学です。そこには陶酔の余地もあり、満足を得られる“何か”があるのだと思います。(私自身、信者時代にはその手の“満足感”を真如苑活動の中から享受していました)
けれども忘れてはいけない事は、その出発点が“此方サイドの負い目”にあるということです。その“負い目”を取り除いた後になってもなお、そこには活動の意味やモチベーションがあるのでしょうか?「心の汚れ」とは、本当の意味においての“汚れ”といえるものなのでしょうか。
時間を重ねて行けば、心の在りようなどは常に変わり続けます。3歳児までの無垢な気持ちも、大人になった今となってはそれを“無知”と言い換えることも可能なのです。同じように、今の心の在りようを“汚れ”と言い換えることも可能なのかもしれませんが、その汚れとは自分自身の歴史とか、経験という意味であり、決してそれが“悪”という訳ではないのです。
<谷居>

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「真如苑の必要性」を考える

この所は、私の身辺においては真如苑の情報というものがすっかり断ち切られた状況になっています。

信者を辞めてから3年ちょっとが経過しましたが、生活そのものに大きな変化はなく、特に真如苑を辞めたからといって過分な幸せが訪れたかというと、私については決してそうではないのです。

かといって、私が散々と真如苑に関する悪口や否定的なことを書き連ね、周辺の人間関係にも告知していますが、それによって仏罰のようなものが訪れたかというと、これもまた決してそうではないのです。


自動車に乗っている人ならばピンとくる話かもしれませんが、古くなったクルマを修理して新しいパーツを組み込むと、まるでクルマの性能が上がったような錯覚を覚えるものです。長く乗っているうちに、知らず知らずと劣化してきたパーツは、そのクルマが本来もっていたスペックをスポイルさせ、性能をダウンさせていたのですが、それらのパーツを交換すれば、また元の性能を発揮するようになる。そのように、落ちていたものが本来のポテンシャルまで復帰するだけのことなのですが、修理して暫くは実に気分良く快適にドライブができるようになります。

そのことと、私の状況がまるで同じとは言いませんが、以前の自分本来のスペックを取り戻すことができるようになってきたのだと、最近は思うのです。

真如苑の信者だった私は、何かにビクビクとしていたというよりも、何かに対して過分な期待を寄せるようになっていたと思います。「正しく信仰をしていれば、道はついている(拓ける)ハズ」という自信。その自信は、今は持ち合わせておりません。
「なるようになるのは、ある意味において仕方ないこと。現状の中で出来る最良を見つけていくこと」それが、今私が考えていることです。

真如苑を信じている信者にしてみれば、私の考えていることが「そら見たことか!真如苑の信仰を正しく進めていないから、『なるようになってしまう』などと考えるのだ」と思うことでしょう。『なるようになってしまう』というのはすなわちそれが“因縁の苦しみ(怖さ)”だと、信者は信じているからです。


占いは、「統計学」によって人間の行動を分析し、どのように物事を考え、人生を歩む傾向にあるのかを探ります。その統計によって導き出された道筋に対して、「こんなことが起こる」とか「あなたはこのように考える(傾向がある)」と、その人に告知します。

真如苑は「占いやあてものではない」と言いながら、「真如霊界から先の先を見て、信者に霊言をくだす」としています。その論拠は占いとは違って統計学ではないのですが、“霊視”を根拠としてその信者がどのように物事を考え、人生を歩む傾向にあるのかを霊言で告知するのです。
信者の身辺に起こる出来事を“事象”と定めることによって、信者に自分の心癖を意識させます。心癖とは言い換えれば、物心ついてからずっと歩んできた自分の人生における、自分流の遣り方なのですから、そうそう簡単にそれを変えることなどできません。
けれども真如苑は、その「自分流の遣り方」を悪と定めます。悪いことだから、それを変えなければいけないと言います。悪いと定める根拠がすなわち「因縁」なのです。

「性格を変えるのは、並大抵のことでは出来ない」などと言いますが、並大抵どころか、死ぬまで出来ッコないことだと私などは思うのです。

そもそも論で言えば、性格を変える必然そのものが、私には理解できません。
「自分に身についていないものや習慣、考え方や行動を身につける」ということと、「性格を変える」ということは根本的に違います。自分の性格を理解すれば、どうすればそれら(身についていないもの)を自分に取り入れることができるのかを理解できるようになります。それができるようになれば、「性格を変える」という事に対して、何の必然も感じなくなると思うのです。

冷静に、それらを真如苑のロジックに当てはめていけば、「因縁を消滅させる必然」などないという事に気づくと思います。結局の所はそれもまた、「真如苑など何の役にも立っていない」ということの発見に繋がる考え方だと思います。<谷居>

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礼節とか、人格とか

少し…、と言いますか、相当に頭にきたことですので、敢えて記事にすることにしました。

真如苑の信仰(いわゆる活動ですが…)は、一体にして何のためにやるのでしょうか?
単なる先祖供養であるならば、これはもう100%他力本願で「自分が幸せになりたい」と願うだけのことなのです。“三つの歩み”や“無相接心”はたまた“事象による気づき”や“心の汚れを霊能の鏡に映し出す接心修行(有相接心)”とは、一体何の為の“修行”なのでしょうか。

どうして真如苑の信者は、「真如苑活動(信仰)をやること自体が間違えである」ということを、身をもって、自らの行動をもって提示してしまうのでしょうか?非常に残念なことですが、こういった行動を「一部の心無い信者がやること」とトカゲの尻尾のように切り捨てることには、もう限界があり、そんな嘘は通じないのです。一部の信者ではなく、真如苑そのものということなのです。


私の反苑活動用のメールアドレスに、信者の方からメールが届きました。
今までに、信者・非信者を問わず、メールをいただいたことは多数ありますし、そのやり取りの中から私は自らを再度見つめなおす機会を得、“考察・真如苑”というまとめもしたのです。そのように、有意義にメールが使われることは大変に良いことだと思うのですが、相当に不毛なメールのやり取りを前出の信者さんと交わすことになったものですから、そのやり取りの始終を掲出することにいたしました。
勿論、最後のやりとりでの信者ご本人からの申し出「アドは消却しといて下さい」を充分に尊重いたしまして、メアドなどの個人情報を掲出することはいたしません。

真如苑被害による深い悩みや、オープンにし難い相談事などでメールをいただいたのでしたら、私はこんなことはしないのです。今回は「表に出ないやりとり」だとでも思っているのか、そういった浅ましい心積もりから生じる欺瞞や無礼というものが、真如苑が掲げている“心を磨くこと”とは対極にあるということを晒すことが私の目的です。以下のような慇懃無礼な心構えをしているのが“真如苑信者”であるということを、再認識していただくためのものです。

信者、非信者の方を問わず、別に私はその方々に礼節を求める気はありません。ネットという性格上、私自身が“どこのウマの骨だか判らない人間”ですし、年齢・性別・住居・氏名をオープンにしているワケでもないのですし。ただ、だからとって、また私が“反苑を掲げている”からといって、『何でもアリ』だと信者の方は思ってはいけないのです。心を磨くということは、私のような如苑に対する無礼者に対しても、摂受の心をもって接しなければいけないことなのです。
そんな、初歩的な人間としてのあるべき姿勢すらも提示することができない真如苑信者とは、一体何なのでしょうか?元信者として、悲しく情けないことです。真如苑に騙されている信者は、本当にかわいそうな人たちです。


<5月11日 3:48 着信>
件名:初めまして
本文:
携帯からメール欲しいです!一応は家族入信で苑の者です!

<5月13日 2:29 返信>
件名:Re:初めまして
本文:
匿名様 はじめまして。谷居と申します。
先ず、金曜日から土曜日にかけて、ネットから離れた環境でしたので、メールチェックが遅くなりましたことをお知らせいたします。先ほどあなた様からのメールを拝見しましたので、遅くなりましたが返信差し上げました。
また、×××(編者注:送信者の携帯キャリアを記載)よりメールを頂戴いたしましたが、私は真如苑に関する応答はyahooのメールを使用しております。
真如苑事務局員から私の身元を特定しようとする動きなどに対して、警戒する必要があるため、いきなり私の携帯メールから返信差し上げることが憚られますこと、何卒ご理解いただきたく思います。

もし、今後匿名様とやりとりをすることがあっても、当面は携帯からメールを差し上げることが困難であることをご理解ください。

以上の状況で構わないということであれば、何かありましたらご連絡いただくことは一向に差し支えないですし、可能な限りにおいて、私からも返信差し上げます。
以上、よろしくお願いいたします。<谷居>

<5月13日 13:57 着信>
件名:Re:初めまして
本文:
遣り取りしても携帯からのメールは駄目なんですか?

<5月13日 16:41 送信>
件名:Re:初めまして
本文:
匿名様 こんにちは。
携帯のメールに拘る理由はございますか?状況次第では携帯からお送りすることも考えますが、あなた様の状況もキャラクターも何も判らない現状で、私の携帯からメールをお送りすることは差し控えさせていただきたいというのが、前回お送りしたメールに記載していたことです。
どうしても私がyahooメールからお送りするのが、あなた様にとって支障が生じるということであれば、私としては納得できる理由と、私の警戒心が解ける状況があるのならば、お送りすることを考慮いたします。<谷居>

<5月13日 18:17 着信>
件名:Re:初めまして
本文:
法友になれたら思いまして!

<5月13日 22:41 送信>
件名:Re:初めまして
本文:
匿名様
> 法友になれたら思いまして!
お書きになっている意味が理解できません。
あなた様からの問いかけに対して、私は以下の返信をしております。

1)携帯のメールに拘る理由はございますか?

法友という言葉の意味が理解できませんが、仮に法友というものになるとしても、携帯のメールにこだわる意味がそこにあるとは思えません。

2)私がyahooメールからお送りするのが、
 あなた様にとって支障が生じるということであれば、
 私としては納得できる理由と、私の警戒心が解ける状況
 があるのならば、お送りすることを考慮いたします。

法友になるという状況において、私がyahooメールからお送りすることが支障となるとは思えません。

従って私としては納得ができないということと、私の警戒心を解くどころか、それが増してしまう状況ですので、残念ながらあなた様の問いかけに対して、私はお応えすることができません。ご了承ください。<谷居>

<5月13日 22:43 着信>
件名:Re:初めまして
本文:
返事は要りません!アドは消却しといて下さい!サヨウナラ!

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何故熱狂的になるのか

信者時代、教えになぞらえて静かに考えたいと思うとき、イベントで「ケイシュサマ~。」の声援。
N君はその声によって何かをかき消される気がしました。
青年会長が当時「ケイシュサマ絶対帰依!」と主張していました。
また、寒修行の前になると「燃え上がる」という言葉が気になりました。
そのような高揚した心で自己の内面を見つめ、修行できるのか。N君は「この人たちはそうした盛り上がりだけで現実をただ忘れたいのではないか。」と思い始めていました。
しかしオブラートを何重にも重ねられると言われるマインドコントロールが深くなっていくのに気づかないN君でした。
熱狂的であるが故におかしな事をいう指導者のお陰で脱会できたN君がいるのですが、カルトという言葉を身をもって体験したN君でした。
熱狂的にさせることで、教えを疑ったり辞めたりすると何が起こるか分からないという恐怖心や、頓珍漢な事をいう指導者に対する疑いをもはぐらかしていたのだと思うN君でした。
Yahoo!知恵袋で身近な信者の歩みを信じてあげましょう、と感情に訴えようとする意見も熱狂的の延長であると思うN君でした。

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