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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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勇気を挫く真如苑の教え

真如苑の賞罰は教えを信じるか信じないかによって、天国と地獄の差があります。
それを教育に持ち込んでしまうと、勉強や運動ができても教えのお陰となってしまいます。
これでは勇気が挫かれてしまいます。
勇気が挫かれてしまえば、教え寄りな生活になり、親は子どもの問題が起これば教えを信じてより取り組むようになるでしょう。
そんな教えの不幸が家庭を襲うと、不幸の連鎖となってしまいます。
まだ根深くならないうちに教えを認めない思考を身につけ、問題を少しでも遠ざけることが必要です。
教えは、問題が起こると、因縁の始まりで、教えに取り組むきっかけを狙っていますので。〈一闡提〉

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信者が集会に行っても

家族の帰りが遅いので、心配すると、他地域に真如苑の会合に行った家族が道に迷ったそうでした。
家族は誰も取り合いません。触れないようにしています。それは触れない方がトラブルを回避できるからです。信者による逆ギレもあるので。
家族がそれを受け入れると、信者は調子に乗ります。「避けられて警戒されている。」というプレッシャーを与えることは大事でしょう。今はスマホからも質問できます。疑問に思うことで良いんです。
後ろめたいのは信者であると、周囲が冷たい態度を取れば伝わりますが、もっと精進してしまう可能性はあります。
今は真如苑被害者の過去記事が蓄積されています。信者に逆ギレさせることで精進させる傾向があり、周囲の被害者を動転させます。そうした悪影響の一歩先を行き、被害者となり得る人同士の情報共有によって信者の取り組みをバカらしくさせながら、周囲の被害者も信者の奇怪な行動をバカらしく思って冷静な対処ができるべきです。〈一闡提〉

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常住祭に連れて行かれて引いてしまった人の記事

承認制によって囲われたSNSで、常住祭に意図せず連れて行かれた人の記事を読ませてもらいました。
もう亡くなった人の誕生日を祝い、常住という言葉が信者には「常に見られている」心理に働く、と私はコメントしました。同時に希望せずに連れて行かれる人のストレスを察するとともに、宗教の名の下、蔑ろにされている自由があることを悲しく思いました。
そして教え上層部に声援する信者を見て、哀れさを感じ、とある国を連想する事に共感を覚えるのでした。
この様な事が何十年続いてきたのでしょうか。それは被害ではないと言う人もいるかも知れません。むしろ、被害であることが伝わらなかっただけかも知れません。
今はそれらを伝える手段としてネットがあります。〈一闡提〉

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真如苑信者の許し難い認知の歪み

要するに認知の歪みは人が自分の都合の良い様に考えることで日常的に行われていることです。
しかし、真如苑という新興宗教の信者とやり取りをしたことのある人で、余りにもおかしいと感じる認知の歪みとも取れるコメントがあるのではないでしょうか。
例えば、社会を驚愕させるような事件を起こした新興宗教の報道を見て。

信者:真如苑の教えは違う。あの人たちもこの教えに結ばれていれば幸福になれたのに。

物事を都合良く考えることはある意味自分を守ることですが、あくまでも教え絶対で、教えの都合の良いように思考を導かれている信者が嘆かわしいです。
この教えは、行き着くところは勧誘で、それを成功させるために人を騙し討ちにしてまでも入れさせようとします。そして、無断で入信させたとしても、勧誘した信者が会費を立て替えれば教団が潤います。信者はどう考えるのでしょうか。

信者:この有り難い教えに浴すことができるのは信者の特権であるが、自分だけがお力を頂いて救われているだけでは抜苦代受も遠のいてしまい、救われない。精進し続けることが大事である。人をこの有り難い教
えにお導きして、人を救う人になってもらってこそ真の救いがある。

これは、勧誘について教えに都合の良いように考えることですが、抜苦代受というお力が遠のくのはマルチ商法で商品の劣悪性を明かされてもやめられない状況となっているのと同様です。そして、このお力という商品を人に掴ませなければ自分がお力という商品を得られないという悪意でさえも、善意として都合良く考えるようにされているのです。
その他真如苑で示される霊、因縁は信者に恐怖心を抱かせて、日常で起こることまでも真如苑のお力と絡めて教えを歩まなければならないように、信者をして教えにとって都合よく考えるようにし向けられています。
それら違和感のある信者の投げかけは、日常では信じられないような認知の歪みによって引き起こされている現象として動揺しないことが大事です。要するに真如苑を歩み続けると大幅な認知の歪みを生じることになるということで、その活動に荷担すると人の認知を余計に歪めることになるのです。教えを否定することも信者の認知を「歩みが足りない。」と思わせ、教えに荷担することにもなってしまうのです。
信者の認知の歪みの原因を知り、その歪みはお寺と言われる教団施設に行ったり、集会によって歪めさせられ続けている事を知り、その様な事態に動揺して否定することなく、誘いに乗ることなく、ネット情報も利用しながら対処する必要性を思います。<一闡提>

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一部の心無い信者がそうでなくなるとき

一部の心無い信者とは教え通りではない、世のためにならない、教えに泥をぬる信者です。
それは発覚しなければ言われませんが、教団の体制として発覚しないように対策がされています。
それは、「病気直しの教えではない。」「接心は当てものではない。」「入信は本人の了解を得て。」などと釘を刺しておきながら、無断入信も受理されてしまいます。
「当たった。病気が治った。」などは
信者が言っているのであり、教団は何も言っていないのです。信者が勝手に判断するのです。
だから、トランス状態となった信者が何を言い触らそうとも、信者が勝手に言っていることなのです。
しかし、因縁に倒される恐怖によって教団での地位を上げなければならない信者はネズミ講のように人を勧誘しなければなりません。ネットでその手口も出回ってしまっています。
一部の心無い信者が教えで向上しなければならないネズミ講型の活動をしなければならないことが原因で、教団に苦情を持ってきたとき、そうしたことがネットでの通報によって頻繁に現れたとき、一部の心無い信者が多くの心無い信者として認識されるのでしょう。
信者が教団施設でトランス状態にさせられ、修行を積むうちに日常でも施設内でのトランス状態を持続させようとするとき、周囲からは「おかしいことを言うようになった。」と思われるようになります。
信者が誘ってくるのは、その誘う信者も勧誘される段階を踏んでいます。自らも勧誘させられる状況に陥らないため、あるいは個人情報が信者である友人に利用されていないかなどと不安に陥らないように教えの手口を周囲が知ることで「一部の心無い信者」が「多くの心無い信者」であることが発覚し、教義の問題が浮上するのでしょう。〈一闡提〉

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