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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

真如苑信者が平気で嘘をつき、人を欺く様になるのは

真如苑の信者は、教えの示す言葉は絶対であるとして、その言葉に従います。人生の転機をはじめとした選択を、霊言に示され、二者択一的判断ならば、「暗いものが示される。」などの様に示されれば、断念します。それは、暗いものが示されただけで、判断したのは信者本人となります。
その様なものに頼るのは、信者の判断力不足にも影響します。判断力を教えが補ってくれるのは、楽なことです。信者は「宗教を信じ続けるのは心が強いから。」と言うでしょう。
首をかしげるような霊言でも、曖昧なことを示されて、信者が連想したことを「そうですよ。」と当たったかのように言う教えを批判されると、信者は自らを批判されることになります。
洗脳され、教えを信じなくなったらどうなるかわからないと思わされている信者が、ただひたすら教えを信じ、勧誘第一の教えを実践するには、平気で嘘もつかなければならなくなります。
教え歴が長くても、判断力が向上するわけではありません。あるときは虚勢を張ってでも教えを信じていることを主張しなければなりません。潜伏してただひたすら信じるのが楽なのですが、教えはそれでは許してくれないのです。〈一闡提〉

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ネットに見る信者の主張

ネットの質問箱で真如苑に関する質問が寄せられると、信者の意見は「信者にだけ相談する」事を促します。それは何を意味するのでしょうか。囲い込みです。教え絶対の人の輪の中でただ信じることが主張されているのです。 しかしネットで質問される事自体、教えにおける上下関係が崩れているので す。それでも後の無い教え指導者は、コミットメントの一貫性とも言われる 「自分の取ってきた行動に一貫性を持ちたい」という意識から指導者であり続けたいと行動を変えないでしょう。 お釈迦様の捨てるべきと説いた執われを教えの中の人間関係では肯定され、教えの中だけで認められる価値を求めさせられる縮図に嫌気が差した人を引き留めてもストレスは溜まるばかりです。教えの中で解消しない疑問を信者で固めて囲い込もうとしても、情報は教えの外に向き、見え透いた勧誘はネット検索を促すでしょう。それは この教えが信者を混乱させて救いを求めさせようとするからです。 取り組むほど救いに対して負担が大きくなるばかりです。<一闡提>

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死角によってアラを隠す

真如苑からは今や完全に離れた生活を、私は過ごしています。

以前の私は、何か上手く行かない事があると『教えに歩んでいるのに何故?』と思っていました。
このように書くと信者の方は、真如苑から離れていった『堕ちた人』の発言として、それを『他力本願』と捉えるのでしょう。けれども、真如苑の活動(信仰)をしていた人なら、それは他力本願ではなく『正しく教えを実践しているのに何故?』と考えている事なのだと解る筈です。

正しく教えを歩むとは、有相・無相の接心修行に取り組む事(因縁切りへの取り組み)、三つの歩みを実践する事、朝夕のおつとめとして読経する事、会座に参座する事、足下の和合に取り組む事、等々、真如教徒として求められる資質を備え、世の円満な指導者として真如苑の看板を背負い、教主サマ・継主サマ絶対帰依で、み教えを中心とした生活を送る事なのです。

ある一つの角度から見ると、上記のような『正しい教えの実践』ができなければ、それは「教えを正しく理解できずにいる状態」という事になるでしょう。その、狭いアングルで物事をとらえるのならば、教主サマ・継主サマ絶対帰依の領域まで踏み込まない限りは、教えを正しく理解できないと言えるのです。

それをどこかおかしいとか、怪しいと感じる事は教えから離れていく心の隙であり、その隙は『魔』と受け止められ、魔が差すように我欲に執着する醜い心と考えられるのです。

教えが正しいと思う事は、一つのアングルに過ぎません。ですから角度を変え、立ち位置を変え、多角的にそれを検証してこそ、人としての正しい判断ができる筈なのです。
けれどもそのようにアングルを変える事は『教えを疑う心』とされ、信仰障害や世間法に流される事、或いはまた因縁通りに歩む事と決められます。
一つのアングルで物事を考えるのが、真如苑のルールなのです。
それは、当然といえば当然の事です。手品ならば、『客席』という一つのアングルから観なさいというのがルールなのと同じように、舞台裏からみたらボロボロに嘘がバレてしまうからなのでしょう。
手品ならば、『関係者以外立ち入り禁止』なのですが、真如苑では『因縁の恐ろしさ』という脅迫で、信者を一つのアングルに縛りつけているのです。
裏から観たら、ネタがバレバレの哀れな姿なのですが、観客席という一つの場所から観てる分には十分に楽しめるのが手品です。
真如苑はネタがバレないように、信者を脅したり「教えを理解できない人」などと言う訳です。「このアングルから観なさい。そうでなければ教えは理解できないですよ」と言うのです。
そしてマインドコントロールされた信者が同じアングルから同調し、反苑を謳う者を非難するという図式が見受けられる事になります。
<谷居>

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真如苑の霊能がインチキでない立証

真如苑の霊能がインチキでもなく本物であることも立証不可能でしょう。真如苑の続く限り。
しかし、真如苑が続く限り、インチキか本物かも分からないものに翻弄される人が増えるのです。
急がせて、考えなくさせ、身内の不幸をネタに金銭を振り込ませる詐欺は犯罪です。しかし、真如苑の場合、本人が示された霊に対して施餓鬼などの手法をお願いすることは本人の判断であり、宗教的行為なのです。インチキか本物か立証できません。
もしかして、信者はインチキと立証できない事がインチキでないと判断できる理由なのでしょうか。だから「怪しい教えじゃないよ。」と安易に人を勧誘する人もいるのでしょうか。
インチキなのか本物なのか立証できない中で怪しい教え擁護を企てる信者の文面はYahoo!知恵袋などで見られます。そんな言葉を発したら、周囲からどう見られるか、それさえも見えていないと思えます。〈一闡提〉

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RE17:マインドコントロール

ネズミ講と言われて返す言葉がないのは、結構なことです。
それでも続けなければならない教え。仏教を前面に出した教えです。
「水も漏らさぬ秘密主義」と酷評された教えにおいて、信者がその様な言動を不特定多数の見るネットで発してしまうのは、ある意味内部の統制が崩れている様にも見えます。
この教えの行く末は勧誘第一主義を肯定しながら、仏教であるとうそぶき、信者に勧誘させ続けるのでしょうか。
システム的にはそうでしょう。しかし、マインドコントロールや洗脳されて、盲信する信者の勧誘活動をかわすことができれば被害に遭わないで済むのです。被害とは勧誘被害に遭うことや、自らが勧誘被害を広めさせられようとすることです。心に悪い勧誘ネズミ講型宗教を広めるべきではありません。〈一闡提〉

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