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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

教えから身を守る心の保ち方

N君は、この教えに求めさせられたものは、世間での欲望と同じようなものだと思う。人とは違う宗教に出逢い、もっと救われる欲望。それは仏教で言う「慢」の心にも繋がり、今に集中するのではなく、教えに示された霊因縁による妄想に急かされていたのである。
人の為の教えでありながら、人を勧誘して巻込むことで人を救うかのようにこじつける思考も育っていた。その求めるものの根底が、霊因縁という妄想から救われるお力なので、どうとでも表現できるのである。
慈悲喜捨の心に立てば、人の為にならない取り組みよりも、教えの手口を広めた方が、被害者が減り役に立つ、「慈」の心に立てるであろう。
信者の教えを信じない人に対する攻撃的な態度も、「教えに霊因縁の妄想をかきたてられて大変だね。」と「悲」の心で共感できる。決して、信者の立場の、「最高の教えを信じることができなくてかわいそう。」という優越コンプレックスとは違う。
そして、教えによらなければ喜びがないかのように思考する信者とは違い、身近で喜んでいる人の喜びを自分の喜びにする「喜」の心も大事である。
信者からの教えのための働きかけの先に不快を見越して、反応しない「捨」の心も大事である。
教えの示す安易なお力は、「もっと救われたいと思う「欲望」を刺激し、霊因縁による妄想を、霊を示しながら深めようとする。その様な状態は、霊因縁の妄想とお力によるマッチ・ポンプである。
仏教を前面に出す教えから救うのは、皮肉にもブッダの知恵かも知れない。《一闡提》

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あなたが変われば相手は変わる

N君は今思うと邪な意図を感じる。「あなたが変われば相手は変わる。」それは信者が相手に気に入られるように変わることで勧誘に有利になるように相手の気持ちを変えようとする意図があるのである。
ネットで書かれているとおり、親切な人が突如、信者であることを明かし、勧誘してくることがある。それは勧誘に成功するだけの不幸を勧誘ターゲットに見出し、教えの示す霊因縁と絡められると判断し、信者が決断したのである。
思考が言葉となり、行動となり、習慣となり、運命となる。教えの思考は教団施設で「この教えでしか救われない。」と大勢の中で言われ、霊界からの言葉を聞き、それらを自分の思い当たることに絡めて救われない霊と因縁付けていく。
信者の課された運命は、人の不幸を観察し、秘密裡に勧誘して、勧誘した人に教えに示される霊因縁とその人の思い当たることを因縁付けさせ、勧誘できる人にしなければならなくなるのである。
そこまでになるまでに、信者は秘密裡に取り組み、勧誘される側にとっては、唐突に信者であることを明かされて霊因縁の恐怖を植え付けられようとする。その様な手法を予め知っていれば慌てることはない。N君は長い時間をかけて霊因縁の恐怖を植え付けられたが、その手法を理解するまでにも同様な時間を要した。脱会カウンセラーの本を読んだり、ネットで質疑したりしながら、ネットに書かれているとおりの行動を信者がしているのを気付き、その手法を理解して対処している人も見た。
相手を変えるために変わろうとする信者の目的を知ると、信者の周囲が対応を変えなければ対処できないと思えるN君である。相手に隙きあらばどこまでも教えを信じさせようとする信者は、霊因縁の恐怖に動かされているとN君は思う。
「否定しない」。「注目しない」。「行動しない」。そして、霊因縁の恐怖はこの教えでしか示されず、それらから救われるお力もこの教えでしか流れない。その様なマッチ・ポンプを信者に植え付け、勧誘しなければならないネズミ講型の教えの構図をネットに書かれているとおり理解して、信者の周囲が冷静に対処できるようになることを望むN君である。《一闡提》

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信者との基本思考の違い

違いを認めることは対人関係に取って大事である。しかし、N君は信者の教えを信じさせようとする目的に折れることはできない。
N君は信者時代に教えに守らなければ因縁にどう倒されるか分からない恐怖に駆られていた。しかし、接心の曖昧な言葉や指導者の指導によってN君がそう思っただけであって、教団は仏道修行であると言うであろう。それは手口である。
信者は因縁にどう倒されるか分からない不安な状態であり、信者は接心があるから人よりも危険を予知できると思い込んでいる。だからたちが悪い。下手すると自分は教えを信じない人よりも情報通だと思い、言っていることはあとから取ってつけたような接心で言われるようなことが多い。
そんな基本思考でも、あらゆる世の権限を使う。それは信者の一面で、新興宗教を信じているという劣等感もある。大勢の人のいる場で信者と明かされれば、耐えられない劣等感が信者を襲うだろう。だから教えを肯定し合う信者の集まりに安息を求める。
危険を予知できると思い込んでいる信者がネズミ講型の活動をしていることを意識できずに振りまく被害も、思考の違いを理解しながら対処するしかないとN君は思う【一闡提】

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教書どおりでは理解できない教えの外の現象

N君は信者時代、「ネットでは教え批判が沢山されていて、それを見ると地獄に落ちる。」と家庭集会で言われていた。
それはまるで教え批判をする人は、理性がなく、感情的に闇雲に批判していると聞かされていた。
教えの目的を知ってしまったN君は、その様な言葉が、教えで示される霊、因縁から守られるために信者が信じさせられていることを踏まえつつも、教えの目的に沿って行動させられる危険性をネットで配信している。
信教の自由の侵害も、最高の教えであるが故にまかり通るかのような教義である。
どこまでも教えを信じていく信者が、人を救うと称する行動にN君は憤りを感じる。
人を救わなければ自らも救われない状況にさせられておいて、人をその状況に巻き込もうとする教義の目的は、ネズミ講型である。[一闡提]

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信者のジレンマ

N君はかつて信者として教えに惹かれ、この教えが世界を救うかのような感覚にさせられた。しかし、同時にN君は心が疲れていた。そんな人に入り込みやすい教えだとも思う。他の新興宗教もそうだと思うが。
信者は世間一般にはない救いを感じ、その取り組みの中で上から流れてくる教えのお力を信じ、そのお力が流れてこないことを恐れるようになる。
それは、いつまでも向上せずに教えのお力に浴すことである。向上するには人を救う、つまり勧誘して人をこの教えにつないで救わなければならない。そうしなければ霊、因縁の恐怖から逃れることはできない。今思えば、教えに植え付けられた恐怖を人にも感じさせなければならないから、不幸の手紙と同じであるとN君は思う。
信者は教えを疑ったり否定したりすると教えのお力が流れてこないことを知っている。そう知らされている。だから、教えを信じなかったり否定したりする人は教えの力が流れてこない。しかし、その人が不幸であるとは限らない。信者は、「良ければ教えのお陰、悪ければ取り組みが足りないから。」と思わなければ教えを否定することになる。教えを信じていない人の、教えを信じないことによる危険に気づいていない部分に注目しなければ、信者が教えをやっているメリットを実感できない。それどころか、思考停止させられている自分が、教えを信じない自由な人から論理的に攻められると、自分まで教えに対して疑いを持ってしまうかも知れない。だから、相手に対して「理論理屈」と言って思考停止を促すこともする。
要するに信者は、否定すればお力が流れてこないような不安定な教えに翻弄されながら、自分の心に嘘をつき、教えに依存しながら教えに人を導くことで不幸の手紙を送る様な行為をしながら人の信頼を崩す行為をせざるを得ない立場であるとN君は考える。
それは信者が決断していることである。それをN君は信者が教団繁栄のために霊、因縁によって追いつめられて世間と教団との防波堤となって精神的に消耗させられているとしか見えない。それが信者のジレンマではないか。《一闡提》

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