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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

特有の物語を信じさせる宗教

宗教の中では、「強い心だから信じられる」などと方便が言われます。
宗教は特有の物語を信じさせられ、それが主に教祖の通った道であるなど、美化されて、同じ道を歩むことで救われることが言われます。
信者は、自らの人生をその物語になぞらえて、あるいはこじつけて、自らの人生に意味づけたり、指針としたりします。
それは信教の自由です。
その物語となぞらえた人生を勧められる事は、まだ信教の自由の範疇だと思います。
しかし、その物語を信じないことが罪であるかのように仕向けられると、信教の自由の範疇を超え、人の課題への介入となります。
教祖一家の布教の物語が信者に拡大解釈され、とにかく教えに結ぶことがその人に無断であっても良いことであると解釈されると、無断入信や囲い込んだ半強制的入信にも至ってしまいます。
教えの物語が美化され続けるために、信者の取り組みや思い込みに迷惑する人たちの声が遠ざけられることもあります。
教えに取ってはあってはならないことかも知れませんが、実際に問題であることを伝え続けなければ、教えの物語に洗脳された人たちに泣き寝入りを強いられる人が増えてしまうと思います。《一闡提》

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恐ろしい賞罰

この教えでは、縦の関係を基本とし、教えの為になればお力が頂け、教えに沿わなければ因縁に倒されるという賞罰があります。
そこまで恐れるまでに洗脳されるまでには、接心で先祖が喜んでいるという話から、体のある部分を患って亡くなった先祖が示されるなどして、日々の事象や自分の体の症状などに絡められていきます。
霊界の世界も絡めた可能性世界からのメッセージを操作されながら、現実世界の理解不能なことに、賞罰を伴って意味を与えられてしまうと、因縁から護られる賞と、教えに背くとどう倒されるかわからない罰が植え付けられてしまいます。
教えから醒めた脱会者にその賞罰の思考は通じません。
真如苑の賞罰に囚われた信者の働きかけは、頓珍漢を伴って過去のトラウマを思い出させることがあります。
そのような苦い経験を秘密裏に植え付けられる人が減るように、軽い気持ちで勧誘に反応してしまう人を減らすための情報提供が必要です。〈一闡提〉

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寒修行奉仕体制の変化

何年前からでしょうか。
支部の 寒修行の時間割が朝から1時間毎に区切られて、未信徒参座可となっています。
支部以外の会場では、公共施設を借りて、行きやすくなり、個人宅でも参座できるようになっています。
その意図として、「教えのお力に多くの人が触れられるようになった。」と言ってしまえば教え的ですが、信者の振り分けられる人的体制の問題ではないかと思います。
過去には、駐車場、放送、読経などの奉仕体制を打合せながら、「参座人数ではない。」と言われながら、少人数の参座者のために行った寒修行でしたが、その様な体制もできなくなっているとすれば、教えの欺瞞に気づく人が増えていると判断すべきかも知れません。
信者一人当たりの負担が増え、モチベーションも上がらない状況になれば、行きたくもない、意識したくもない教えの施設に連れて行かれる、信教の自由を蔑ろにした取組に付き合う被害を受ける人が少なくなります。その被害が、ネットで質問されるのに、被害ではないかのように操作されようとした被害なのです。<一闡提>

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真如苑信者が与える不幸の連鎖

真如苑の世界は、良ければ教えのお陰、悪ければ信心が足りないから。二分法的思考です。
テストで良い成績ならば、教えのお陰、悪ければ、信心が足りない。教え以外の恩恵は、恩恵ではなく、教えに沿わない努力は、報われない努力なのです。
教えを歩んでいない人を、信者が囲い込もうとするとき、そこには独特の悲壮感が漂い、教えへの悪い念は、信者の向上心にすり替えられます。
この様な教えに、囲い込まれたまま、教えを信じない人を自己否定させるような状況に晒されるのは、この上ない不幸です。
「幸福になりますよ。」と勧誘しては、教えの粗に気づくと、「堕ちた人」と不幸な人扱いする真如苑の教え。放置すると、不幸の連鎖となりますが、対応を誤ると、信者をのめり込ませる、不幸な連鎖が絶えない教えです。〈一闡提〉

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侵害は信者が勝手に行うこと

真如苑では、人を救うため、日々修行が続けられていると言われます。
その修行の中で、信者は、「教え通りであれば、幸福であり、教え通りでなければ不幸。」というような、二者択一的、二分法的思考にさせられます。
教えを辞めた人や、教えを否定している人の幸福は否定されるのです。
それは、「家族、夫婦で歩まなければ幸福になれない。」と言われる霊言の如く、信者の思考が原因となって、霊言通りにさせられようとしているのです。
何か問題があれば、「心ない一部の信者が行ったこと。」と片付けられるでしょう。
教えを信者の前で否定すれば、信者に取っての教えを信じない不幸を、否定者に投影して攻撃されてしまいます。
その様な教えが、人を救う、すなわち勧誘しなければ救われないのですから、教えに合わない、教えを信じられない人に取って、不幸を振りまかれる宗教となり、信者をして攻撃的に働きかけられる結果となってしまいます。
誰にも相談できない、勧誘された本人が折れて、教えを信じようとする以外に解決されない悩みが、ネットで問われ続けています。〈一闡提〉

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