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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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加害者が被害者面するとき

真如苑信者はどこまでも教えを信じていく強い自分を理想とし、またある時は「正しい教えを歩んでいるが故の、迫害される被害者」を装います。
「正しい教えを勧めている救世主」である信者が、都合が悪くなると「いずれ分かる」と無断入信のような裏工作をして実績を積む活動は、自分助かりたいが故の問題行動であると言えます。
教えを信じない人の前では、教えを歩まないが故の不幸を演出し、「私は周囲が歩まないから不幸」という類の被害者意識を醸し出すのです。
それは救われない霊、因縁に自分の不幸を投影しているが故の、人の背後霊に投影して教えを信じない人の徳が足りないから不幸を克服できないかのように、教えを信じない人の努力不足のせいにるすこともあり得ます。とにかく、教えを信じない人が悪なのです。
いつの間にか、倫理を逸した行為も「教えを信じているが故に許される」という飛躍した解釈となって、「あなたのためにやってやっている」と、被害者のような、救世主のような、加害者となっていくのです。〈一闡提〉

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それって偽善者だから言えるセリフ

「頑張ってください。」
真如苑でよく聞く締め言葉です。

その言葉は他人任せの表れ。言いたい事だけを言った後で、無責任にそれを締めくくる言葉。
だから、霊言でも経親でも、「一緒になって頑張りましょう」とは言わないのです。

「ハイ。そーですよ。さ、取り組んでください」という霊言の締めも同じですね。

それらは「応援するぜ」という言葉と同じで、決して当事者の立位置には入ってこない、あくまでも傍観者でしかないという意志を形而下で表明する言葉なのです。

応援団は、あくまでも当事者ではないのです。それは、応援というシチュエーションを利用して、自分が楽しむ場を見つける事、つまりは身勝手そのものなのです。

ただし、常識的な応援団は当事者を支えます。プロスポーツならば入場料を払って観戦したり、応援グッズを購入して、選手やフロントの収入に寄与します。
自分勝手ながらも、応援という立場を楽しむだけの対価を払っているのです。

ところが真如苑は、応援団のクセに当事者からお金を貰っているのです。
身勝手。それでいて言いたい事だけ言って「お金チョーダイ」という浅ましさ。

呆れるばかりです。
<谷居>

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教えの世間での応用

信者は教えを分かる人は一般の知識ももち得ていると判断します。
教えの分からない人は判断力が無いとみなします。
それは教えが最高の教えだからです。
しかし、一般的に見ると信者はネズミ講型新興宗教に騙されている哀れな人です。
心が弱った時に、そんな教えに操られた人が勧誘してきても、ネットでひとたび調べれば怪しいと分かること。それが大事なことなのです。〈一闡堤〉

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本物である根拠

「この教えは本物」と信者が思う時。その比較対照とは一体何なのでしょうか。それを冷静に紐解いていくと、そこには信者の主観しか存在していない事が解ります。それは、「本物」の証明は、理屈では出来ないのが真如苑の生業だからです。

信者の方に「どうして真如苑が『本物だ』って解るの?」と訊いてみたいものです。信者のエビデンスは消去法でしかないからです。
「私が信じる事ができるから」「騙しや詐欺ではないから」「創始者が在家と出家の両方を修行したから」「抜苦代受があるから」「ご先祖樣の苦しみを消除してくれるから」など、他にもあるでしょうがどれも似たり寄ったりでしょう。
「××××ではない」とか「(××××ではなくて)△△△△であるから」といった話しの組み立ては、それは理屈ではなく感情なのです。信者が、唯一真如苑が本物である事を証明できるのは理屈ではなく「体験のみ」だから、感覚的で感情に依存する以外の手立てがないという事なのです。

信者は、そうしたある種の特殊性に身を委ねていますから、そこに偏執的な連帯感が生じてくる事が十全に理解できます。家庭集会や帰苑時に「自分一人じゃないんだ」という後ろ盾を得ながら、自らを苑の活動(信仰)に奮い立たせる動機付け。やらなければ解らないというエリート(選民)意識と、自らが他人の役に立っているという自意識とが交錯する、張りぼてのような充実感。
「唯一無二の教え」というプレミアム性だけが、それを支えているように感じます。

「オレが凄いと感じるのだから、コレは凄いんだ。」という横暴がまかり通るのは、特殊な連帯性の中だけなのです。
<谷居>

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選民意識へ持って行くための単純な思考

~一闡提~ 2010/11/13 07:05

新宗教と言われる宗教は「ここが一番」と表現される様に他宗教との差別化を図ります。
まず教義において、「法華経では救われないけれど大般涅槃経ならば救われる」と教団内で流布されている場合、涅槃経を経典としてない宗教では救われない「ここが一番」という思考に信者をさせます。
他に「双親様が一切を捨てて開いたから」「抜苦代受によって苦しみを受けてくれるから」「霊能によって現在、過去、未来が分かるから」など最後には「有り難い」「ここが一番」と思わせる単純な思考(思考停止)にさせます。
これらの根拠が曖昧であるにも関わらず何か良いと思い込まされてしまうためのプラスの選民意識がまず植え付けられます。
これに対して「新興宗教(新宗教)である」と迫害される可能性もあり、そうした社会からの冷たい目に対抗するための思考も用意されています。
「あの人の先祖が救われておらず、徳が少ないために有り難い教えを理解できない」「あの人は○○の新興宗教を信じているから徳が無い」「世の中の人は分かる人と分からない人がいる」などと考え、「教えを歩める自分は徳が高い」などとマイナスの選民意識も植え付けられます。
信者はプラス、マイナス両方の選民意識を植え付けられ、不幸の力によって教えにのめり込まされていきます。特に周囲の人が脱会させようとすると両方の選民意識が強力に働き、教えにのめり込む方向に思考が働いてしまうことがあります。これを「駄目スパイラル」という言葉で表現されることもあります。
これを防ぐことはできないのでしょうか。社会の病理がある以上、人が騙される要素は無くならないでしょう。しかし、因縁を切る方法があるとすれば、「因縁を切ると言いながら架空の霊、因縁を示し、教団組織に貢がざるを得ない状況にあるとき、その教義の欺瞞性に気づき二度と騙されないこと」が因縁を切ることなのです。

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