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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

RE01:本当の優しさについて考える

厳しい修行、優しい修行、利己、利他の観点で真如苑の修行を見ると、それらがマインドコントロールのためにうまく使われています。
真如苑は先祖を霊的に救う厳しい修行。ある時は難しい仏教を三つに集約してくれた優しい修行です。
人を救うことで自分が救われるのだけれど、まずは人を救わなければならない修行。人を救うほど自らも救われる構図が示されています。
それは利他によって、次に利己となるギブ&テイクの様な良い印象にも取られますが、元々は真如苑に示される霊、因縁から逃れるための利己のために利他と称して勧誘しなければならないマッチポンプの一環なのです。
その構図の裏には教団のために信者が操られている実態があります。
ネットでの信者の回答は、教えに否定的ならば厳しく、教えに肯定的ならば優しい言葉を向けています。一番は論議が起こらない方が手口が広まらなくて良いのですが、ネットという情報伝達手段が想定されていないネズミ講型の教えは必然的に疑問を投げかけざるを得ないのです。
この膨大で、似たような事例を、信者向けと同じ様なはぐらかし情報操作や印象操作でもみ消すことができるのでしょうか。
真如苑が信者に与える霊、因縁による迷いを焼く炎として情報が燃え広がり続けるのでしょう。<一闡提>

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RE01:占いやアテモノではない?

人の脳は自ら暗示をかけることでプラスにもマイナスにも働き、良い酵素を出す働きも左右されるそうです。脳は意外と騙されやすいようです。
カルトはプラスにもマイナスにも暗示をかけ、人の心を揺さぶります。その暗示は「教えを信じないとどうなるか分からない。」という暗示です。
「接心は当たる。」と信者にプルーフで表現させても、アテモノではない、と信じさせる教えは、どこまでも良いことは教えのお陰で、悪いことは信心が足りないとはぐらかし続ける効果があります。
持ち上げられては落とされる教えに立ち止まって考える余裕を奪われて、教えのためになる勧誘に邁進させられる前に、教えの欺瞞に気づけることは、健康的な生活を守ることです。
なぜ健康的ではないのか。勧誘しなければ救われないからです。この教えの取り組みを人に勧めなければならないからです。そんな誘いに乗らない人が増えることが、悪意で勧誘の教えをこれ以上広めない抑止力になるのです。〈一闡提〉

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RE01:死角によってアラを隠す

それまでこの世に現れなかった唯一無二の教え。
勧誘された信者はその前提から別の前提が刷り込まれていきます。
「疑ったり教えを悪く言ったりしなければ救われる。」これも信者の焦点を狭くさせる一つの手口です。そう考えなければならないのは少しずつ刷り込まれる「教えのお力を頂けないと不幸になる。」という脅しが前提です。
最初から「勧誘しなければ救われないネズミ講のようだ。」「接心はコールドリーディング。」という角度で見てしまうと、はまる可能性が低くなります。
信者は悪い情報を一切言うことなく勧誘したり囲い込んだりします。周囲が信者ばかりで教えを様々な情報によって疑問を持ってしまった2世、3世は可哀想です。もちろん親からは「ネットを信じるな。」と言われているようです。
Yahoo!知恵袋においても信者が一つのアングルにものの見方を持っていく意図で書き込んでいます。「このようなところで真如苑の質問をしても信憑性のない情報ばかりだよ。」と。自らが発する情報もそのようなところで書き込んでいるのに。
賛否両者の共通点が読み取れます。どれが経験者の意見、どれが信者の意見、など読み取れるほど読んでみるのも、悪意の教えから身や心を守るヒントになるのではないでしょうか。周囲が信者ばかりで半強制的に教えの活動を強いられる未成年信者に取っても。そうした苦い経験も、乗り越えたならば経験者の対処法として書き込んてほしいものです。〈一闡提〉

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RE01:元信者として

真如苑では他のカルトと同様、自分の足りないものを満たしてくれそうな気にさせられます。それは「理想の親」「理想の自分」「理想の世界」です。
それらに近づく為に、真如苑ではお力や霊界からの救われない霊の言葉を示してくれます。それらに従っていれば、理想は満たされると思わせてくれます。
しかし世の円満な指導者をはじめとした取り組みは、なぜか真如苑での儀式や人数集めが成功するように取り組むことばかりです。
そして、人を導いた人は指導者となるのですが、教えに気づかれてしまった後の対処は、「堕ちた人」としての情報遮断です。それはネットでもはぐらかしや自作自演として実践されています。
人より低い位置で傲慢な自分がよく話を聴き、教えの良さを伝えようとすることは自らを磨く取り組みとなり得ることもあるでしょう。しかし、教えの中身が無く、人に説明できないまま「とにかく行けば分かる。」「やってみなければ分からない。」では、教えに操られているだけです。
教えの活動の裏の、人を誘わなければ救われない取り組みに見え隠れする「教えを疑ったり、否定したりしたら不幸になる。」という恐怖心を勇猛心として取り組むことは、潔い様で危険です。教えの中では潔さが求められるでしょう。
自らが気づかぬ内に植え付けられた恐怖心によって人をネズミ講のような不幸な道に誘い込もうとしているならば、悪意がなくとも悪意を植え付けられた、人を不幸に導く人となってしまうのです。〈一闡提〉

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RE02:自作自演

真如苑のお力が霊によらず、お決まりの言葉を集団で言っていることでそう思わされているだけならば、自作自演です。そこでは教えを信じないと良くないことが起こる、こんなに多くの人が信じているなどと思わされると、一つ一つは小さな自作自演でも多くの人の中では集団圧力としてマインドコントロールの力が働きます。
そのためには信者の勧誘段階から極力疑われないように印象操作や情報操作をしていなければなりません。その効果はネットで情報が流れると薄くなってしまいます。ネットの都合の悪い情報の信ぴょう性を下げなければなりません。
過去の掲示板荒らし、現在はYahoo!知恵袋荒らしが見られますが、信者による教えにとって悪い情報の信ぴょう性を下げようとする手法に自作自演が見られます。一人で主語、述語もわからない書き込みをしたり、「反苑の言っていることは訳が分からん。」という類の書き込みをして、他の同調意見をベストアンサーにして残したり。
それらも判断材料としながらも、勧誘されて教えに取り組みながらマインドコントロールされて行き、教えに誘うために自らが自作自演しなければならなくなるのは悲しいことです。「有り難いお寺があるんだ。」「仏教に触れてみないか。」それら言葉はネズミ講めいた活動が背景にあれば、自作自演となってしまうのです。やっている本人が気づいていても、いなくても。〈一闡提〉

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