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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

私は真如苑の教えをやっているという主張

それは、脱会者に対して向けられることもあります。
教えをやっている自分を正当化したいのでしょう。
それは、本人の自由ではあるのですが、そのことに対して相手がどのような印象を持ったり、考えたりするかは、その人の自由です。
自分が教えをやっていることを相手が肯定せず、相手も信じようとしないことが気に入らず、何らかの嫌がらせをしようとすることで、真如苑被害が生まれます。
人もやっていないと気に入らない教え。それは、教えの押しつけ以外のなにものでもないのですが、信者の教え内での権威を保つ目的や、信者が救われた気分になる目的など、様々な目的を実現するために働きかけられるのです。
そのような信者の周囲の人の不安や迷惑、被害がネットで報告され続けています。
もしも、信者の人で、脱会者や教えを信じようとしない人に対して、執拗な嫌がらせをしているという自覚があるならば、注意しましょう。
一闡提と名乗ってブログをアップしている人に対して行われているかも知れませんので。〈一闡提〉

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真如教徒は被害者意識があっても加害者意識は無い

真如教徒は、先祖の因縁によって不幸にされている不幸な人です。あたかも自分は悪くないかのように思わされます。
一方、指導者は「霊のせいにしてはいけない。」と指導します。取り組みの足りない信者自身のせいです。教えにおいては。
教えを信じない周囲を、悪い存在と思わされても、そう思わざるを得ない信者は、罪悪感を感じません。「教え絶対」だからです。
そんな一方的な思考を、許してしまうのは、信教の自由や、思想の自由を、信者が尊重しないからです。その心の裏をかかれて、自らの思想、信教の自由を侵害されていないでしょうか?そんな観点でも、カルト被害を考えなければ、侵害されるばかりです。〈一闡提〉

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都合が悪くなるとのらりくらり

真如苑は仏教を基本とした、遍く救いを渡す新興宗教です。
かつて歩んでいた人がその欺瞞に気づき、避けるようになれば、周囲に知れない程度に攻撃し、教えを信じない不幸を示そうとします。信者が、自分の立場が優勢と思えば、必然的に行われる所業です。
しかし、周囲の状況が教えに否定的で、信者本人の判断力に疑問が投げかけられたら、信者は自らの記憶力や判断力の異常性を言われる状況で、信者に権威が無ければ、信者は潜伏しようとします。
そんな判断力の人が信じる教えを、周囲が「人類地球宇宙を救う教え」という飛躍したものと思うのでしょうか。
その行動は、批判だらけの掲示版で信者が「何か問題なのか?」とはぐらかすのに似ています。はぐらかすしかないのです。
放っておいて、信者の活動しやすい状況にするならば、教えによる被害が放置されます。
教えに迷惑を感じる人たちが信者の周囲を占めて、活動を抑制すれば、被害の拡散が防止できます。なぜ被害なのか。ネットで報告されるとおりです。〈一闡提〉

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敵視されるのは自分たちが敵視するから

真如苑の教えを経験した人や信者との軋轢を感じた人は、元々教えを敵視していませんでした。
私の場合は、真如苑の教えを歩む中で、やけに他宗教を比較広告しているイメージはありました。
しかし、この教えが信じられなくなって、遠ざかろうとしたときの信者の敵視がひどかったのです。
その原因は一度教えの手口がばれると、その手法が伝わってしまうことで、教えの最大の取り組みである勧誘が成功しなくなるために、手口を知った者を信者から隔離するための手法でしょう。
信者が勧誘した人が教えのネズミ講的手口に気づいてしまうと、攻撃的に排除されそうになることが、真如苑被害の一つなのです。
相談接心などで相談を受けた霊能者は、相手と離れるべきか、曖昧な言葉で示します。その様な無責任な言葉に人生を左右されたり、されそうになった人が、被害者として情報発信するのに、やはり信者寄りの人は敵視して何かを包み隠そうとするのです。〈一闡提〉

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本当の優しさについて考える

真如苑信者がネットで教化している事があります。
知恵袋で疑問を持つ人(アンチではなく、単に疑問を感じている人)に、厳しい言葉をかけます。

真如苑は「修業」だから厳しいのだと信者は言います。
他力本願では何も成就せず、そんな気持ちでは自分自身が苦しいだけなのだと言います。
教えを放棄することは『逃げ』なのだけれど、続けるのもやめるのもあなたの自由だと言います。

時にはクケンカシャクと同様に厳しい言葉を浴びせ、時には脅しのごとくに「そのままではあなたの人生は堕ちていくだけ」と捨て台詞を吐きます。

信者が見つめる先には、何があるのでしょうか。真如苑が単純に厳しいだけの場所ならば、誰もがみなドロップアウトするでしょう。時間をかけ、お金を使い、それでも当人に一切の実入りがなければ、誰でも辞めていくのは必然です。

真如苑には、明確に『利』があるのです。一般の信者はそれを『利他』と言われて真に受けています。
けれどもそれは、利他が利己に変わっていくという期待を伴っているのです。

利他だけならば、たとえ何十人勧誘しようとも信者の霊位向上など不要です。それは『利他』という言葉で誤魔化され、霊位の向上が行く行くは霊能者となり、他の信者の為になるという曲解をも生じさせます。

利他だけならば、自分のご先祖の苦しみよりも、相手のご先祖の苦しみを救えば良いのです。護摩・施餓鬼は『利他』という言葉で誤魔化され、ご先祖様を救い出すという崇高な行為であるが如くの勘違いを起こさせます。我が身に降りかかる因縁を消徐させることは、自らの利に他ならないのです。

利他だけならば、三つの歩みで得る『徳』など不要です。勧誘が、自らの修業になることはありません。ご奉仕も、修業ではなくただ真如苑のために尽くすだけで良いのです。

積む徳。磨く徳。積み磨く徳。そして因縁消徐。利他はやがて、明確な利己へと変貌します。

その『利己』を得る事が厳しいのだと信者は言っているように思います。修業だの、性格や心癖を変える厳しさだの、御仏に寄り添う(如来法に添う)厳しさだのと。
つまりは全てはやがて、明確な利己に繋がる行為それ自体を『厳しい』と言っているのだと思うのです。

そんな厳しさは、真如苑の外に幾らでもあります。先ず以て、性格を変える事などできないのです。自らの性格を自覚し、その中で自分はどのように生きていくかと、誰もが思惟しています。
『修業』などと悠長な事を言う以前に、厳しい環境の中にあって懸命に生きているのが普通です。
良い事もあれば、悪いことも起こります。
もし人生の中で『救い』があるのだとしたら、それは救われたと感じる自分自身の中にあるもので、誰かが与えてくれるものではないでしょう。ましてや用意されていることもありません。

『真如苑には救いがある』と信者や関係者がいうのならば、それは明らかなミスリードです。
尤も『真如苑には厳しさしかない』などと言えば、最初からほとんどの人はそこに訪れないでしょう。

真如苑に魅せられ、惹きつけられた信者が見ているものが行き着く所の『利』でないととしたら、一体にして何でしょうか。

私自身は我が身を振り返ってみれば、結局の所は『利己』だったと今は思います。
恐らく信者の方は、「谷居はそんな考えだから真如苑から堕ちていった。真如苑の修業は厳しいのだ」と言うのでしょう。
そんな『厳しさ』など、解りきった上での発言と思ってはいただけないのかもしれません。
<谷居>

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