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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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自分の内面を見つめられない信者

お釈迦様の教えは自分の内面を見つめて煩悩を取り除くことです。
しかし信者は教主がどんな修行をしたとか、やっていることがネズミ講であるかなど疑いもなく、仏教の修行であると思い込まされています。それはカルトの教えから振り落とされない事への煩悩です。
そんな信者を気づかせることは困難ですが、周囲が気づいて否定することなく対処することで、信者に教えの力を疑わせるきっかけになります。
信者は救われる人だけで行なっている気になっていますが、信者が周囲を勧誘に巻き込むことなく救われた気分でいられるのには限界があります。
そうした対処法が広がっていると思える状況がYahoo!知恵袋の800強にも及ぶ質疑に見られます。
周囲が教えの手口に乗せられることなく、信者の居場所を奪い教え寄りになることを防止する手法を共有しましょう。〈一闡堤〉

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同じ誤ちを繰り返す反面教師

真如苑では教師となり、人を教化することで自らも救われます。それは広い目で見るとネズミ講型組織で上へ上がるための勧誘と指導に成功することです。
それはとても難しいことであり、それでも教えに選民意識を与えられ、信者は勇猛心を持って取り組みます。
しかし、ネズミ講型の取り組みに困難が多いため、教えでは表面的には許されない無断入信など密教の秘密裡では許されることをしてしまいます。それは氷山の一角です。
私に教えの欺瞞を気付かせてくれた反面教師は、過去にも所属に教えをを馬鹿らしくさせて教えを離れされています。
今度は子供をターゲットにしています。教えの指導は行き届かず、結果が伴えば許されてしまうため、これからも人の子供を狙うのでしょう。
片親が脱会者で夜な夜な集会に行く事の出来ない、頻繁に教団施設に行く事ができない状況でのマインドコントロールは難しい状況です。
子供はiPodやパソコンで必要なことを検索できます。親が教えの欺瞞に気づくように子供に働きかけることで、子供が立ち止まって考える事のできる環境づくりをすることや、子供が別の理想の親理想の自分理想の世界を求めないように気遣うことが大切です。それがカルトの狙い目だからです。<一闡提>

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RE:破壊的カルトに対策し続ける重要性

~ 谷居 ~  2011/1/16 00:00



“心のアングルを変えて物事を見てみる”ということが、とても難しいことだと思い知らされます。

私は試みとして「信者であった時の自分」が、反苑の会でどのような議論が出来るのかということに今トライしております。

そこで感じたことは、「信者の持っている心のアングルを変えさせることは難しいのではないか」という所感です。『真如苑の教えはすばらしい』ということがデフォルトである人に対し、「それは邪であり、詐欺とイコールの行為である」ということを知らしめるには、どうしたらよいのか。それには本当に頭を悩ませます。

そして逆に感じたことは、反・真如苑である今の私がいくら言葉を尽くしても、それは「真如苑信者には届かない」という無力感です。

だからこそ、別なアングルでの切り口が欲しいのです。

信者の方々に、そこ(如苑)は間違えであることを知らしめるには、薄皮を一枚一枚と剥ぐような根気の要る作業であることは、頭では判っています。でも、それがもし自分の目の前に「問題」として横たわっていたら、そんな「一枚一枚…」などという悠長なことを言っていられるのか。その感覚が、とても歯がゆいのです。

「真如苑は、その活動をすること自体が誤りである」と口外することは、それは真如苑の信者にとってみれば「間違えた正義の押し付け」にしかならないのかもしれません。けれども逆に見てみると、真如苑信者の人たちこそが「世間法にとらわれてしまう谷居(反苑人)は、因縁に倒されてしまった人。因縁通りに生きていくしかない、救いようのない人間」と“間違った正義”をこちらに押し付けているのだと思います。真如苑の中だけでしか通用しないアングルが、それが世の中の全て(正解)であるような感覚を持ってしまうことこそが、危険思想なのだと思います。

お互いが一歩引く所から、歩み寄りが始まるのだろうか。けれども私は、真如苑の信者は本当の意味で「一歩引いてくれる」のだろうかという疑念が払拭できないのです。
信者は表面的には一歩引いてくれたとしても、その引いた一歩には「絶対に譲れない信念」を包括したまま、黙ってウソをついて引いている一歩にしか思えないのです。

それならば、反苑としての自分は、真如苑信者を一歩引いて認めることができるのだろうか。。。結局自分自身も、真如苑信者と同様「絶対に譲れない信念」を包括し、それを手放すことができないのではないだろうか。

そいういう意味での「お互い様」だとしたら、本当の意味で信者とわかりあうことなど出来ない。だとしたら、『反・真如苑』を訴求することは、一体どうすることが正道となるのだろうか。。。

この疑念に、新たな道標となる明かりが欲しいのです。その一つとして“心のアングルを変えてみる”ことを考えてみました。答えは、まだまだ出そうにはありませんが。

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破壊的カルトに対策し続ける重要性

~一闡提~ 2011/01/06 06:25:13

破壊的カルトはその被害に遭わなければ人に認識される可能性が少ない集団です。
そんな集団を知ってしまったとき、逃げることは大切です。しかし、その被害を受け続けているとき、その被害をもみ消される方向に持っていかれるとすれば、被害が広がることを予想しなければなりません。
そんなとき、破壊的カルト経験者に何ができるのか。それはその被害をこれから被害を受けるかもしれない人にできるだけ分かりやすく対策を伝えることです。
脱会カウンセラーもその重要性を訴えています。破壊的カルトは信者に対して破壊的カルトの無意味な教義に気づいてしまった人を「破壊的カルトの示す力による報復を受ける」と脅します。そして、信者と脱会者との接触を断とうとします。
もう一つ仕掛けがあります。それは破壊的カルトの教義に独特な言葉や難解な教義を使い、信者のレベルに合わせて教義を変えることで、その無意味な教義の本質が知られないようにすることです。
そうした長年の対策によって、ネズミ講型の組織であっても、信者をして次なる獲物を勧誘させることをしながら、何十年も続いている破壊的カルトがあります。
生まれながらにして思想信教の自由を意識できる前に、社会心理学を駆使してマインドコントロールされる人がいたり、成人してからも心が弱っているときにマインドコントロールの恐怖を知らない人が引っかかってしまったりします。
破壊的カルトの狙いを常に訴え続けなければ、破壊的カルトの望む金銭を奪われ、その代償として心に少しずつ傷を負うことになるのです。
「破壊的カルト」をパソコンの機能で思い当たる組織名に検索置き換えすることで、自分の思い当たる新宗教の狙いに対して考察してみましょう。

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偶然の未経験に責任は問えない

~ 虎の母~  2010/04/13 16:00

谷居さんと同じく、宗教被害は自業自得では無いと思います。
自分が集会のマインドコントロールに罹らなかったのも、100%偶然の人生経験に拠ると考えています。

例えば、学生時代に社会の授業で、先生が新興宗教について面白おかしく話をしてくれました。授業が終わってからも友人と「そう言えば、某駅前で勧誘しているよね。」などと盛り上がったものです。心に「新興宗教とは笑いのネタ」と刷り込まれました。今では笑えない社会被害だと思ってますが・・
また、苑の集会の話を友人にして「何か変なもの拝まされたよ。」「ブッダって偶像崇拝禁止してなかったっけ?」という会話をしました。友人のおかげで「やはりおかしい所なのだ。」と認識しました。

しかし、新興宗教について考えたことも無かったら?
世の中に自分を巧妙に騙そうとしている人がいるなんて考えもしなかったら?
向上心ゆえに頑張ろうとしてしまったら?
誰もが聞いたことのある「仏教」を持ち出されたら?

たまたま経験していないことは誰だって有るのだから、「宗教被害は自業自得」というのは新入社員に「仕事ができない」と責めるようなものです。

今の自分も何らかの騙しに弱いところがあるはずなので、ネットや書籍からの情報収集によって、騙しの疑似体験ができればと思います。特にネットの手軽さは貴重です。今後のIT格差の解消が、騙される人の解消に繋がればと思います。

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