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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

集団圧力

~ 一闡提 ~  2010/01/16 17:02
「情報が制限されていなければ効かぬ集団圧力」

不幸が重なり、藁をもすがる気持ちの時は、周囲が見えず、情報が制限された状態だと思います。それにかこつけて信者による教えへの勧誘の要因となり、「有り難い教え」の言葉に惹かれて金満な近代ビルへ誘い込まれることになります。
しかし、そこに至る前に難関があります。それはインターネットに書かれた不快な想いをした人たちの書き込みです。その予備情報はせっかく用意された塀に囲まれた状況で行われる心理操作にマイナスの要因として働きます。
今年の寒修行はみ心により、未入信者でも参座できると聞きます。それは、複数の教えを信じる信者の敬虔な姿によって、み教えの信憑性を伝えようとする集団圧力を急いでいるのが感じられます。
しかし、地方の一般家庭では奉仕者の人数が参座者の人数を上回る状況で、参座者もご奉仕の非番の日に参座している状況もあります。そこで見せられる金ぴかの仏像と金髪の苑主、教えに酔ったプルーフを見せつけられれば、ある程度精舎で参座せず、因縁の恐怖を植え付けられていない未入信者が見たら、即ネット検索ではないかと思われます。
ネットの無い時代に、信者同士の関係で入信し、スジ、精舎、合同集会などの集団圧力の中で秘密裏に行われてきた膝つき合わせての教えでした。
しかし、2世の信者でさえも、親の非常識に迷い、教えを疑いながら、ネットの情報に賛同し、カルト関連書籍をネットで知り、それを読むことで、10年以上前の分析が今にも通じ、その悪質な手法が今にも形を変えながら引き継がれていることに気づくことができます。
身内を装い、身内の不幸の情報を前面に出して金銭を振り込ませようとする詐欺の手法がありますが、ここはその手法に何代前かわからない先祖、いつ行き倒れになったか解らない地縛霊が霊能鏡に映し出されて助けを求めていると、遠回しに少額で仏教の手法を使い、振り込ませようとします。
そうした手法が明るみに出てきているから、未入信者も入信手続きすることなく集団圧力を加えようとしているのだと思います。しかし、それは情報が制限されていない状況下では、手法が先に解ってしまうやり方だと思います。



~ 谷居 ~  2010/01/17 22:45
「集団圧力と感じること」

1995年の年の瀬、僕は仕事で取引のある方から「伝えたい情報があるから来て欲しい」と呼ばれ、何のことかは判らないまま、とある集会に参加しました。それは「かもめサービス」というFaxを使ったサービス提供の勧誘でした。

今は、その時の詳細は覚えていないのですが、あまりに強烈な印象であったため、そのくだりは判然と今でも覚えています。サービスの概要を説明し、実際の会員が壇上で自らの成功話をプレゼンテーションする。また別な人が出てきて今度はかもめサービスの信憑性の高さをアピールするべく、「フォーミュラニッポン(カーレースのカテゴリです)のメインスポンサーになった」ことをPR。そして再び別の人が出てきて成功話を始める。

その集会の途中、僕は直感的に「これはヤバい」と思いました。一歩引いて冷静に考える自分は、それらの全ての話を怪しいと感じていました。そしてまた、もう一人の自分が「これは、もしかしたらオイシイ話かもしれない」と感じていました。その、相反する思いを同時に抱える自己矛盾に対して「ヤバイ」と思ったのです。「これ以上、この話を聞いていたら、冷静な判断ができなくなる。(恐らく、自分はこの儲け話に乗りたくなる筈)」という、自分の中の天啓。そしてそれ以上は、良し悪しの判断がなし崩しになることを確信し、その話が本当にヤバイものなのか、そうではないものかを検証する前に、その場から逃げ出しました。その会場は閉鎖空間でしたので、正に“逃げるように”その場から立ち去りました。確かにオイシイ儲け話でした。でも、「恐らく数年経たないうちに、このサービスの悪事が晒されるはずだから」と自分に言い聞かせ、その話を振り払いました。取引先の方とも、一切の連絡を絶ちました。
今現在自分が知る限り、このかもめサービスが大きくメディアに取りざたされることはなかったようですが、『連鎖販売取引』というマルチ商法に分類されたようです。

真如苑に結ばれていない、一般の人が寒修行に参座すれば、これと同じように疑問と感心を同時に抱えるのではないでしょうか。「こいつら、何で皆同じ動きをして読経するんだ?ちょっと変だぞ」ということと、「朝早くからまじめに修行に取り組むのは偉いなぁ」といったことであるとか、その手の相反する二つの事象。それは、閉鎖空間においては確実に「集団圧力」となって、冷静な判断を狂わせるものだと思います。

自分自身に対して疑問を呈したら、先ずはそこから離れることが賢明であると、自らの経験により痛感しております。僕は、真如苑には自ら進んで入信したために、“かもめサービス”の時のような冷静な判断ができなかったため、徐々に集団圧力に屈しました。真如苑に感じた自己矛盾を“ヤバイ”とは感じず、その自己矛盾を修正するように考えていました。たとえば、「教主は、どうしてこんな風な慇懃無礼な喋り方をするんだろう」という疑問に対し、「それは聞く人に向けて、より判りやすく伝えるために、ゆっくりと、時には強い語調で聞く人の心に浸透させるためにそうしているんだろう」というような理由付けです。自ら進んで、喜んで罠の中に飛び込んでいったという、誠に愚かな心持ちです。



~ 一闡提 ~  2010/01/18 05:43
「抜け出すのが難しい徐々にすり込まれた集団圧力によるみ教え」

集団の中の心理を利用した、法に規制されるような商法の存在はいくつか聞いたことはありましたが、この教えに騙されていたと気づいた後に、それらの手法と比べると余りにも露骨に同じ手法が使われていたと思えます。
クチコミでの勧誘、閉鎖された空間での教化、仏教を装った集団個人崇拝など、70年以上かけて培われてきたよく考えられた教えだと思います。
掲示板の情報で、周囲の親戚、家族が信者で固められている状況は強い集団圧力が幼少の頃から働くことになり、そういう状況で気づいてしまった人は本当に苦しい状況であると察します。
危ないと思ったらその場から離れるのが一番であるため、寒修行に未入信の人が誘われて行き、同様に感じたならば、集団圧力から身を守っていただきたいと思います。
さて、この教えはそうした危険性を感じさせることなく、徐々に集団圧力も利用しながら信者に教えに従わないことに対する恐怖を植え付けていきます。気づいたときには、その場から離れるだけでは解消できない精神的な傷を負っていることがあります。しかしそれはかつて自分が受けた心的外傷に妄想を植え付けられた、むしろ傷を深められた状態であり、入信前の状態に戻るだけでは解消できない場合があります。
そうした場合も、教えにはまった状況、原因を振り返り、その教義が無意味であったと自らが理解できなければ解消に向かわないと思えます。
そして、この教えにはまった要因である自らの心的外傷に対して本当に解消しなければならないことが、この教えにどの様に「巣食われた」のかを知ることで見えることもあります。
集団圧力の身近なものは、集会で経(すじ)親や導き親に上求菩提をすることで霊言の解釈をより現実的にされてしまうことだと思います。上求菩提をあまりしない傾向にある人が醒めやすいという事例を聞いたことがありますが、将にその行為に対する指導によって自らの心的外傷に対して妄想を植え付けられやすいと思います。
膝つき合わせての外部からの情報が遮断された状況で成り立ってきた教えが、非信者を寒修行に参座させることで、ネットを通してどの様な反応があるのか、注目してみたいと思います。



~ 谷居 ~  2010/01/18 22:00
「集団圧力に屈した心」

とある相談接心にて、入神前の霊能者からその人のプロファイルを聞かされたことがありました。

その霊能者の方は、専門技巧が必須の専門職に就いていたにも関わらず、心の病により休職を余儀なくせざるを得ない状況に陥った。そこで、食いしのぐためにアルバイトを始めたが、初日を終えた時点で想像以上の、あまりのきつさに耐えかねた。そのままばっくれてアルバイトを辞めようと思っていたら、翌朝アルバイト先の親方が自分を迎えに来てくれた。「その『迎えに来てくれたこと』が確かな縁であった。そのお陰で、アルバイトを続けることができた。そしてその後、病は回復して行き、今ここに霊能者になれた自分がいるのだ。“縁”というものは、実に不思議なものである」と。

ありふれた、よくある話である。しかしその日の相談接心で霊言を聞き終えた後、僕は堪えきれずに涙をボロボロと流していました。「今日は、この人(霊能者)にめぐり逢えたことが自分にとっての確かな“縁”だったのだ。この人でなければ、今の僕の悩みは解決し得ないのだ。真如苑の不思議なみ力が、僕にこの人を会わせてくれたのだ」と。

今こうして反芻すると、まるで気がふれたような思惑です。判然としていることは、自分が明らかに“心酔”していた、ということでしょう。

いつの間にか、悩みに翻弄されている自分でした。そして悩み事には常に、『救いの力』が味方してくれる筈でした。悩みを乗り越えるために必要なこと。その1st プライオリティは何をさて置き“真如苑の精進”でした。現実的な解決方法は、むしろその後からついてくるものだったのです。

しかし、こんな考え方では実社会に通用する筈がないのです。

波が押し寄せてきたら、何よりも先に、波を乗り越える行動を取る。そんなことは自明。それなのにいつの間にか、先ずは祈りを深める---それから行動を取る。という指針に、自らを変えていました。

『何よりも先ず、ご賛題を唱える』とは、良く言われたこと。『心に双親(さま)、両童子(さま)を刻んで、ご賛題を唱える』、そしてそれから事に望む。---それが、真如教徒としてなすべき行為。そんな非現実的な考えと行動を取るように、接心修行で、そしてその後の“上求菩提”による接心語の理解で、そして家庭集会による経親の説法で、それを身につけていったのです。

集団圧力とは先ず自らが、周囲の朱の色に染められてしまうことだと判ります。染まってしまえば、その世界の中だけに通用する、共通用語、共通感覚、共通認識等々。その作用で指導者が右を指せば、全員が右を向いてしまう状況になることだと理解できます。




~ 一闡提 ~ 
2010/01/18 22:21:42
「集団圧力に依存して解消しようとする心的外傷」

み教えは、集団圧力も利用しながら、解消しない心的苦悩の原因をほのめかしながら、その原因を示します。それを信じてしまうと、さらに不幸の原因を追究しようとして教えの手法に嵌ることもあります。
そうなると教えの思う壺となってしまいます。
救われない霊などが原因であるはずですが、それらを更に自らが日常でのこじつけによって深めることで、自らの苦悩を忘れさせる効果もあると思います。そうすれば、それまでの自分の精神的苦労も仕方なかったと思え、その原因さえも解消できるかのように考えられるからです。
その世界から救い出してくれるかのように思わせてくれるみ教えを否定されると、信者はみるみるキレる態度になることがあります。
教えのうま味に世間での積み上げたものを捨ててまで懸けたいと思う心。それは、世間では解消できないかのように思える困難を、解消してくれるかのように思わせるみ教えの力を求める心ですが、それは示される取り組みに安い単価が設定された搾取です。それを多くの人が気付くことは、多くの人を救うことであり、類似カルトに対しても対策が取れることによって、より騙されにくい体質に自らを磨くことにもなると思います。




~ 一闡提 ~  2010/01/20 12:41
「み教えの信憑性を与える家庭集会などの取り組み」

み教えは仏教風の経を唱えたり、用語の書かれた教誌があったりしてあたかも深い教えのように思わせますが、その意図は単純なものであると思えます。
ただ信じ、行って解る(信行解)。霊言は曖昧な言葉ですが、それは教えにとってプラスな方向に考えれば「正しい」と言われます。
その様な法律で言えばザルのような教義にその網の目を埋める役割が、事務局の話であり、プルーフであり、家庭集会での経(すじ)親や導き親の指導だと思います。
特にプルーフでは教えを疑っていたこと、信じて行ったこと、そのときの心の動きと教えの力へのこじつけの文章を大勢の信者の面前で読むことで、集団圧力やプルーフが大勢の前でできることによる権威性の力を借りて、信者の心理に教え通りに行わないことで陥る恐怖に対する恐怖心を刷り込んでいきます。
家庭集会でも信者の体験やお救け(勧誘)の実績報告により、教え通りに行った事による他の教えの力とは比べものにならないご利益、教え通りではない行動をすることで得たリブライ(お示し)として不幸になる恐怖を信者が思うように話が進められます。それは経親の手腕と言えるでしょう。
そうした取り組みを重ねることで、普段の思考の中で「この様な考え方は魔を寄せ付ける。」というように自らの教えに対するマイナスの思考を抑制することで、教えに従わないことによる因縁に倒される恐怖を回避しようとし、同時に行動もザルの様な教義の中に様々な制限が生まれてきます。それは教団側からの指導から口伝によって経(すじ)まで伝わるまでに伝言ゲームのように変化してしまった内容も含まれると思います。
一つ気になるのは、「智流院卒業後、国の省庁の名簿に教師として名前が載る。」という逸話が全国的に広まっているということは本部から流れた事なのか、ということです。
密教の意味が、「秘密」の意味であるという解釈もあるこの教えでは解明のしようが無いと思います。




~ 谷居 ~  2010/01/18 22:00
「集団圧力による、様々な『思い込み』」

一闡提さんの記事に出てくる、僕が気になった2つの点について、家庭集会や接心修行といった真如苑の取り組みを考えつつ、自分が信者だった頃に照らし合わせてみたいと思います。

【膝つきあわせての教義】
家庭集会に参加してみると、信者であった頃の僕にはその度に“発見”がありました。集会では経親から、真如苑に通っているだけでは判らない、教えが持つ意味を聞かされていました。当時の家庭集会で取っていたメモを見返してみると、“純陀尊師は実践の人”や、“お釈迦様が説いた法華経までの教えは、『出家』の教えである。それらは理論だけで、在家の人を救うことができない。涅槃経は出家も在家も、両方に対して救いの力がある教え”、はたまた“早朝奉仕は、『掃除に行く』のではなく、『修行に行く』のである。その奉仕が『毎週ある』と思い、億劫に感じるのか『一週間(7日間)のうちに、たった一日しかない』と捉えて喜びで参加するのか、この心構え一つで修行の成果が変る”など、経親からの言葉が記載されています。それらによって、真如苑での取り組みとその行為全てに“意味があるもの”という意識を植え付けられました。「自分はまだまだ、真如み教えを理解していない。もっと奥があるのだ」という思いを抱かされました。

【教えに従わないことによる因縁に倒される恐怖】
本当に追い詰められた状況があって、特別接心を受けたことがありました。それまでに、事が上手く運ばない状況に対して、『霊的な因縁がある』と諭されていました。そこで特別接心で、状況を好転させるために必要なことをお伺いしようという気持ちでした。「身内を心配させないために、どう取り組むべきか?」そこで示された答えは、以下のものでした。
・その相手の背後霊への護摩と、ご先祖への施餓鬼
・その相手が居る場所の地縛霊への護摩と、関係霊への施餓鬼
・自分の背後霊への護摩と、ご先祖への施餓鬼
・自分のご先祖の“海難犠牲者”への施餓鬼
・漁師だった先祖が殺生したクジラへの施餓鬼
今読み返してみると、『現実への具体的な対処』というものが、一つもないことに呆れてしまいます。しかし、当時はそれらの施餓鬼と護摩をやらないと、因縁が解決しない(逆に言うと、因縁に倒されてしまう)と、本気で考えていました。今、冷静な自分がそのようなことを言われたとしたら、「そんなことで救われるのなら、いくらだって払ってやるよ」と言うでしょう。その言い分は、「4億円の宝くじの当たり券を売ってくれるなら、1,000万円だって払っていいよ」という意味合いと、まるで変らない意味での言葉です。

この記事を書くために、家庭集会・接心修行といった真如苑での当時の取り組みの際に記録していたメモ帳を読み返してみました。昨年5月の、家庭集会を最後にメモは途切れています。自分が真如苑に対して、深く不信を募らせていった時期からメモの記録はなくなりました。それらメモに書かれている頓狂なやり取りは、また改めて記事にしたいと思います。

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