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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

家族・友人間で生じる問題

~ 一闡提 ~  2010/01/23 19:25
「理由を示さない信者の子供への教育」

子供に教えの手口を教えることは難しいことですが、信者は何か大切で有り難いものと教えようとします。
「ナムナム」と子供には教える傾向があるようですが、教団名はもちろん教えません。分からないとは思いますが。子供にとっては信者の子供と遊ぶ機会が得られる楽しい場であると思わせ、尊い伊藤家の人々に対する情報操作によって小さい頃から良い印象をつけようとします。
そんな子供にこの「因縁付け」の教えを尊いと思わせてはいけません。
信者に直接その欺瞞性を伝えては豹変されてしまいますが、「ナムナムはインチキである。」と子供に教え、「インチキとは、間違って人に言ってしまうのではなく、騙そうとして伝えるこだよ。」と教えます。
疑うことは良くないことですが、ただ人の言う情報を鵜呑みにすることは危険であると教えることが大事だと思います。
しかし、信者が故意の場合もありますが、真に受けて信じてしまう場合が多々あるため、一概にインチキとは伝えられない場合があります。
子供には「先祖は代が遡るごとに二倍ずつおり、その中のどの先祖か分からない先祖が苦しんでいると言って、ナムナムがインチキでお金を取ろうとする。」ということを分かる時期が来たら伝えたいと思います。
そして、最近の身内の不幸を装い、焦らせて金銭を詐取しようとする手口とも関連させて教育したいと思います。
次世代を担う子供も含めた青年を取り込もうとする意図は常にあると思いますが、大人がしっかりと罠に対する知識を伝え、子供が不必要な精神的苦痛に耐えなければならない状況を取り除いていけるように大人もしっかりとしなければならないと思います。




~ 谷居 ~  2010/01/24 23:00
「小学生の接心修行を考える」

今は、小学生から接心修行を受けられるようになっていますが、そんな取り組みをさせていたらどうなってしまうのでしょうかね。想像がつきません。たとえばイジメ問題を中心にした場合は、イジメる側、イジメられる側、そしてその傍観者。子供はそのいずれかに必ず属するワケですが、そういった各々の立場に対して霊言が発せられるということが、その子供にどんな影響を与えてしまうのでしょうか。
もしかしたら、子供は大人よりも賢いですから何らかの“違和感”を感じるかもしれませんが、その違和感を打ち消してしまうのが実の親だとしたら、何ともやるせないことです。

僕も、信者当時は子連れで帰苑していました。読経以外の時間は携帯ゲーム機で遊ばせましたが、読経はさせていました。オープニング“不動明王ジクノゴレイジュ”のメロディーが流れる間は合掌。そして読経中の“南無…”で始まる伊藤家崇拝の感謝の間は合掌。その二つを子供に強いていました。また、三礼を進んで自らやる子供の様子に「偉いなぁ」と感心していたものです。その気持ちは、親バカではなく、バカ親ですね。
しかし接心修行には、取り組ませるつもりはありませんでした。修行を深めていくことは、親が強制するのではなく、子供とはいえ一人の人間として自分で判断するべきことだと思っていたからです。とはいうものの、集団圧力がかかる環境にいさせていれば、自然と“自らの判断であるがごとく”に、いずれ接心修行に取り組むことになっていたのでしょうけれども。子供を、深く巻き込まなかったことだけが、今は一つの安堵です。




~ 一闡提 ~ 2010/01/25 06:19
「心の弱者を狙うみ教え」

心が弱っている病人や心的外傷を受けている人が狙われるとすれば、この教えは同様に子供も狙います。その理由としては「教えの未来を担う青年」としてです。
吸収力のある子供はそれが当然と考えてしまうでしょう。しかし、二世でも社会生活をしていく中で、その矛盾に気づき、親の盲信に苦しんでいる人もいます。扶養者としての親がその権限を使い、教えに縛り思想信教の自由を子供から奪ってまでも信じなければ救われないと思いながら信仰を強いている実状があることは痛ましいことです。
同時にそうした親に自分がなろうとしていたことも否めません。
教え絶対として子供に従うことを強いることも、親絶対として子供に親が受けた心的外傷によって子供に同様なことをすることで心的外傷を与えることも、心的外傷の世代間転移であり、それこそ教えの言う因縁であると言えます。何代前の先祖か解らないものを示されて本当の原因から目を遠ざけてしまっていることもあると思います。
教えによって自分の心的外傷に因縁づけられた妄想を次世代に繋がないためにも、因縁地獄に垂らされた蜘蛛の糸を見つけたらそこから抜け出すことが、次世代を巻き込まない幸福への道であると言えます。




~ 虎の母~  2010/01/25 23:13
「他人をコントロールしようとする信者」

虎の母と申します。
この度、谷居さんから「第三者的な視点で」とのお誘いがあり、本サイトに投稿させて頂くことになりました。
簡単に自己紹介致します。親友が深いマインドコントロールにかかり、一般的な感覚を失いました。こう記載しただけで、このサイトをご覧になる方は"どうなって"しまったかが容易に想像できると思います。また、信者特有の言動により、私自身も精神的にキツイ思いをしました。集会も1度参加したことがあります。このサイトにリンクされている「真如苑注意報」の作成者です。冷静にならねばと思いつつも苑に対する怒りは深く、キツイ表現をしてしまうかもしれません。谷居さん、一闡提さんに注意深く見守って頂ければと思います。

信者さんが自律性を取り戻すメソッドとして、最近「コーチング」に目をつけました。
一言で表現すると「相手が自分で答えを見付けられる様に導くコミュニケーションスキル」というものです。
コーチングについてリサーチするうちに、良い人間関係の為に絶対にやってはいけないことに行き着きました。
それは、「外的コントロール」です。相手を自分の思うがままにコントロールしようと試みることです。これに人は多大な不快を感じます。家族を、部下を、友人を、自分の思い通りにコントロールする例は容易に思いつくことができるでしょう。「外的コントロール心理学」「ウィリアムグラッサー」などで検索するとヒットします。
信者さんが周りの人を怒らせるのは、「外的コントロール」をしているからです。
例をあげてみます。
①褒める
信者さんは勧誘者をとにかく褒めます。そのように指示を受けているのでしょうか。
しかし、心無い褒め言葉は「"褒める"という褒美で自分をコントロールしようとしている。」という意図が丸見えで、信頼を損なうものなのです。
「褒めると相手は自分を良い人間と見てもらえる。真如苑を良いと思ってもらえる。」信者さんはそんな風に思っているのかもしれません。しかし、褒めるという行為は繊細で難しいものなのです。
褒められることに集中してしまい自発性が奪われる、
褒められる前に持っていた興味関心が低下する、
といった害があることが、心理学的に提唱されています。
②感謝の強要
「他人の為」と言って信者さんは親切をたくさんします。しかし、「真如苑で他人に尽くすと教えられたから」親切をしてしまっています。相手の為を思ってする親切ではないので、受ける方は「感謝を強要された。」と不快に感じます。感謝や喜びは相手の権利であり、信者さんが無理やり作成する物ではないのです。
信者さんは親切をすればするほど、信頼を無くして行きます。
信者の友人と映画を観に行った時のことです。
「どうぞ!!あなた(虎の母)が真ん中の席に座って!!どうぞどうぞ!!」
激しく言われました。感謝を強要された私は素直に感謝できず、何故か嫌な気分になってしまい、「親切にされたのに、何故気分が落ち込むのだろう?」とストレスを感じました。私は「外的コントロール」を読み取って不快になっていたのです。
別の友人と映画を観に行ったときの話です。
彼女は無言でさりげなく私を真ん中の席に誘導しました。
私は彼女に対して、感謝と尊敬の念でいっぱいになり、「次は真ん中は彼女にしよう!」と思ったものです。
③自分を良い人と思わせる
これは信者さん特有のものですね。「いかに自分はすばらしいか。」「どんな風に自分が良いことをしたか。」たくさん話をして、聞く人を疲労させます。これも、自分を良い人間と思わせるように人をコントロールしているのだと思われます。

信者に「自分はすごい」と聞かされる度に、親鸞の悪人正機説を思い出しました。自分を善人と奢っている者より、悪人として仏にすがるしかないと悟っている者こそ救われる・・・

信者さんは、真如苑から他人をコントロールするように指示を受けています。
しかし、それは信頼関係を損ない、信者さんの大事な人間関係を壊すものなのです。




~ 谷居 ~  2010/01/26 00:30
「“外的コントロール”による、我が子への接心修行への導き」

虎の母さん、投稿ありがとうございます。

“外的コントロール”という概念自体、僕は持ち合わせていなかったのですが、言われてみるとハマる言葉です。

その外的コントロールを、僕は我が子にも課していたのでしょうか。また、小学生のうちから接心修行をさせる親全般に、その外的コントロールという動機があるのでしょうか。

個人差はあると思いますが、親であれば子に対して、その子供の周辺環境を良くしようと願うのは当たり前の感覚だと思います。習い事や塾通いも、周辺環境を良くさせ、その子が歩む道をできる限り楽なものにしてあげたいという親心だと思います。ですから接心修行を小学生にさせようということも、その入り口は“良心的な親心”である筈です。

しかし僕自身は、先にも書きましたが子供が自発的に接心修行を受けたいと言い出すまでは、黙っているつもりでした。恐らく、そこで子供の自主性を考えずに接心修行は良いことだと決め付け、小学生にも受けさせるというのが、“外的コントロール”による動機付けなのではないでしょうか。入り口は親心。しかし、それが主客顛倒してしまう。そういった側面もあるのだと思います。

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