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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

反苑の会サイト

~ 谷居 ~ 
「反苑の会・サイトを見たきっかけ。そしてその後」

僕が如苑の信者時代に、反苑の会・サイトを見るようになった理由は、会社の同僚をお救けしたことによります。その同僚はアジアの仏教国に精通していて、いわゆる「フツーの日本人」と違って宗教観念を持ち合わせている人でした。「日本人は、信仰心がないから外人と比べて話をしているとポリシーを感じない」というようなニュアンスのことを、その人は言っていました。幾度か信仰に関する話を重ねる中で、僕は「真如苑」という宗教団体に属していることを話しました。その話に、同僚は少なからず興味を示していました。そして、とあるきっかけで一度一緒に帰苑しようということになり、つまりはその同僚への「お救け」に僕は成功したことになりました。

SNSをはじめとする、ネット社会にドップリのその同僚のこと、帰苑前に絶対にネットで如苑の事を調べる筈と確信した僕は、「真如苑」のキーワードで検索サイトを探りました。どのくらいの比率で如苑を悪く言うサイトが存在するのか、そしてそのサイトに書かれていることがどの程度信憑性のあることかが、僕の興味の対象でした。その段階で「2ch」は対象外でした。「2chは真意や虚偽を確認する場ではなく、擁護派・中立派・否定派の意見が『どのように展開されているか』を見るためのサイト」というのが、当時も今も、僕の2chに対する認識というのがその理由です。(つまりは全くアテにならないサイト、ということです)yahoo知恵袋で、反苑の会を認識しました。そして、「真如苑/ 被害」というキーワード検索でも反苑の会がヒットしたので、さっそく覗いてみました。

当初、その掲示板に書かれている「被害者」「迷惑している人」「アンチ真如苑」の意見を、真っ直ぐに受け止めることはできませんでした。「ここに書かれている意見は本当なのだろうか。もしかしたら大所帯となった真如苑では『あっても仕方ないこと』かもしれない。しかし、もし実際にこのような被害(や迷惑)があったとしても、その事例は全体の何%くらいなのだろうか」と、考えていました。

僕は、人が大勢集まる場では道徳観、倫理観に温度差が生じ、必ずしも全ての人が身奇麗にいることは不可能だと認識していました。しかし、「そこは真如苑のこと。こんな悪事は全体の10%にも満たない筈。反苑の会サイトはその僅かな事例を、さも全体であるかのように書いてあるに違いない」と思っていました。

タイミングが合わず、中々同僚と一緒に帰苑する時間が取れないまま、半年近くが経過していました。その同僚に対しては、「精進願い(入信届け)」を提出することに承諾してもらっていたため、なんの後ろめたさもなく「お救けの実績」は取れていたので、帰苑はタイミングが合えばできるからと、悠長に構えていました。

その当時の僕は反苑の会サイトへのROMを繰り返していました。意見を書きたいと思ってもいましたが、「今の僕の知識で書き込みをすれば、単純な反発意見しか出ないだろう」と、冷静に分析していました。如苑の教えが正しいのなら、その正しさに則って反苑の人達に意見が言える筈。自分がもっと教えを深く理解したならば、「アンチ真如苑」「被害者」「迷惑している人」に対し、理路整然と「教えの正しさ」を説ける筈だと考えていました。

結局は、それが無理でした。そして今は、それが絶対に無理であることを、反苑の会サイトは証明していると確信しています。

「アンチ真如苑」の立場である反苑の会に対し、如苑信者が取っている行動(サイトの場合ですから、『書き込み』が正しい言い方かもしれませんが)は、実に空しく、哀れなものばかりです。

 ・如苑専門用語を使い、如苑のシステムの説明に終始するだけのもの
 ・下品な言葉や挑発的煽り文句で、反苑者の個人攻撃をするもの
 ・反苑の会が「他宗教の運営によるものだ」と主張するもの
 ・典型的荒らし行為として、長文、駄文、連続投稿を繰り返すもの
 ・反苑的立場のフリをしつつ、「如苑は最高だ」と声高に主張するもの
 ・「反苑の会は信用置けないサイトだ」と流布するもの

結局はそれらのパターンに、終始しています。

僕が如苑の信者時代に強く求めていた「アンチ真如苑の意見を、み教えの正しさを以って導き、単純に否定するのではなく、理路整然と真如苑の正しさを説明し、証明する」ということができる信者は、結局誰一人としていないということが、「如苑の教えは空っぽで無意味である」ということを、自ずと露呈しているのです。
 


~ 一闡提 ~ 

「反苑サイトと信者の態度で学んだこと」

スジという縦割り組織の中で、縦の線で相談する様に教化されます。
しかし、教師も様々であり、「霊能者でさえ一点を磨いているのだから『あんな人が霊能者』と言ってはいけない。」という指示も受けたことがあります。素直に聞いていた私でした。
しかしながら、寒修行でのご奉仕の取り合いなどを何年も目の当たりにして、「そこまでして霊界にご報告したいのか。」とも思うようになり、これは教え的には因縁側に引かれて徳が少なくなっている状態であるという思考にも陥りました。
しかし、「霊界がお見通しならば、カードシステムや早朝奉仕での記名は必要なのか。」「なぜ霊能者は質問をしてくるのか。」「仏教なのに勧誘するのか。」などの疑問を抑えていた思考が、過去に追いやったはずの思考によって抑えられなくなっていました。
取り組めば取り組むほど、少しずつ「疑ってはいけない。」という思考が刷り込まれてきましたが、それを醒ますような信者のコメントに単純な共通点が見えてきたのです。
それは「教えに都合の悪いことは頭ごなしに否定し、ただ『教えは正しいから』という根拠だけで成り立っている。」ということでした。
まさしくそれは反苑掲示板での荒らしと言われる行為にも共通し、言葉遣いが違っているだけなのです。



~ 谷居 ~ 

「反苑の会・サイトを見たきっかけ。そしてその後 2」

反苑サイトでの如苑信者の「荒らし」行為は、僕が如苑信者当時に見ていて、とても恥ずかしいものでした。同じ如苑信者としてそれ(荒らし行為)は、「教えに泥を塗る行為」と思っていました。しかし同じ如苑信者でも、そういった恥ずべき行為をする者たちを止めることができないことも、同時に理解していました。先に書いたように、大所帯になってしまえば道徳観、倫理観に温度差は生じるもので、「少なくとも自分が同じようなこと(教えに泥を塗るようなこと)をしなければ良い」と、自分に言い聞かせ納得していました。

さて、僕が教えの『縦の線の流れ』というものを意識するようになったのは、実は至極最近の事でした。自分の経親が過去におこした『どうしても許せない行為』を容認することができずに、「経を変えて取り組むことができないか」と部会長に訴えた時、そこではじめて『縦の線』という言葉を聞いたのでした。「縦の線は、教主(さま)が決めたことで、教えを正しく伝えていくために必要なもの」と聞かされました。「(縦の線に則って)正しく歩まなければ、正しく『お力』は流れてこない」と言われました。その時にはじめて「なぜ経親制度・部会制度というものがあるのか」を理解したのです。
しかしこれを理解したことは、如苑の矛盾点に気づいていく過程で一つの重要なポイントを占めていたと思います。『縦の線で力が流れる』ということを強く意識することは、逆に見るとそういった縛りがないと制度を維持できないのだということに、徐々に気づいていく事になったのです。そして綻びを最初に感じたことは「経親制度は、もはや現代の流れにそぐわないシステムである」という思いです。
なぜそんな前時代の制度に固執しているのかは、簡単に言えば『ネズミ講』だからということでしょう。随分と後から気づいたその搾取のシステムは、これがきっかけの一つだったと思います。

振り返ると結構呑気に、長年如苑というものに取り組んでいたのだと思います。自分の生活が追い込まれ、「何とかしなければいけない」と躍起になった時、そこではじめて真剣に如苑に向き合いました。そしてその途端に、如苑の嘘に気づいていくことになりました。「真剣にやるからには、どうしても見過ごすことができない経親の許せなかった行為を、きっちりと清算しよう」そのけじめに従って追及したら、『逆ギレ』して恫喝してくるヤクザのような経親。本当に困った時には、何の手助けもしてくれない冷たい所属たち。それらを無視して、「自分は自分」と居直って取り組んでいき、霊能者になってみせると心に誓っていました。けれどもその誓いは、自分自身を突き詰めていけばいく程、『打算』という浅ましい気持ちに通じているのだと、ついには認めざるを得なくなりました。

「必ず幸せになれる」という浅ましい望みを、叶えてあげますよと約束してくれるのが如苑。そのために、『因縁を切る』『徳を積む』という“約束手形”を、奉仕と歓喜とお救けで買い漁る。そしていくら買い漁っても、掻き集めても、「まだ足りない」とせがまれる。足りないのは“精進する心”だと偽り、その実“お金”をせがんでくる如苑。

如苑の中にドップリと入った自分がこのシステムに気づくためには、“自分の浅ましい心”に向き合い、心をえぐらなければいけなかったのです。


~ 一闡提 ~ 

「人の心の隙に煙の様に入り込むみ教え」

人には子どもの頃から自分が悪くないのに周囲の人に左右されて成長します。その人の心に傷をつける慣習のようなものは世代間転移するといわれます。それは心の虐待が親から子に、子から孫へ引き継がれているとすれば、この教えの因縁みたいなものであると理解できます。
自分は悪くないのに親以上のご先祖様が救われていないから、現在の自分の内心に不幸があり、それを大きな力で取り除いてくれる(因縁を切ってくれる)ことに大きな魅力を感じるのではないでしょうか。
しかし、実際はその心の傷にさらに妄想を抱かされて切れそうで切れない因縁切りのために次々と少額で多くの取り組みを示されています。
そんなことも気づかせなくする、人の集団の中での心理を利用して、人が多くを誘うことでその取り組みがさらに伝染していく方式も見られます。
その手法はこれまでのどの同業者も行き着かなかった巧妙な方法であるとも思わされてしまいます。
それほど完成度の高い教えではないかと思います。
しかし、気づく人もネットの普及や人の心理を研究した書籍などの情報によって増えています。
「大海の教え」とはよく言ったもので、あらゆる手口がここにつながっており、「人類地球宇宙を救う」とはねずみ算を感じさせます。
信者のよく言う言葉に「一生続けたい教え。」とありますが、これがまさに少額で数多くの意図が入っている言葉だと思います。
しかし、馬の鼻先に人参をつけられて走らされてる人がふと気づいて立ち止まってしまったり、そこで得た地位のために踏み台にした人の手前後戻りできないために、権威教化などによってストレス解消をしたりする信者も出てきます。それらによっても「土台になれ。」と言われながらも耐えてきた信者に気づかせることもあるでしょう。
それは創られた因縁地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸である可能性もあります。
歩んでいるうちに何度がそのチャンスが訪れるのですが、教えによって「立ち止まることは因縁に引かれることである。」「所属の後ろにいる背後霊も背負っている。」などと緩く恐怖を煽られてまた走らされてしまいます。


~ 一闡提 ~ 

「如苑信者の豹変と掲示板荒らしによる人を卑下する書き込みの共通点について」

信者の教えを否定されることによる豹変は感情をコントロールされていると言われますが、そのメカニズムは明らかにされていません。
思うに、「教えの力無しでは危険がいっぱいの世の中である。」と思想がコントロールされながら、無理のある思想を刷り込まれることで、それが否定されてしまうことは、本人の存在までも否定されてしまうことになります。
信者に問いつめると「逆ギレ」されるという報告はよく見かけますし、自分自身それを体験しています。
それを急激に行うと信者とのコミュニケーションが取れなくなり、脱会への悪影響になるとも言われています。
「教えに従えない者は生涯救われず、その子孫まで救わない。」と、ある意味人格否定されるような心境に信者を追い込んでおきながら、手口に気づいてしまった信者に関しては全否定する手口。
それらは信者のそれまでの「不安を煽られた上での安心」を否定してしまうことへの対抗であり、何としても他の信者にその手口を知らしめてはならない事項となります。
そして、罵声を浴びせたり、相手の人格否定をしたり、批判者を完全否定しようとします。その口調は信者に共通してヤクザが因縁をつけるような言い回しで脅しが入っています。それはそのまま教えに植え付けられた脅しであり、コントロールされた人格の部分であるとも言えます。
信者との対面ではそれが急激なため、こちらが引いてしまいますが、ネットの荒らしのように常日頃では慣れてしまいますし、パターンも読めてしまいます。
そういう意味で、「時と場を考える。」という教えもありますが、所かまわず教えの威力をひけらかそうとすると、手口がばれることになります。
なぜならば、仕切られた空間で、その場で本人以外のすべての人が教えを肯定していなければ、「嘘を本当のように思ってしまう集団圧力」が働かないからです。
よく掲示板荒らしの手口で、行数を空けたり、大量に書き込んだりすることで目的を果たそうとします。それは集団圧力の様な効果を狙っていると思います。
しかしそれは教えを正しく行っていないと言えます。膝つきあわせての口伝の教えは、個人的に悩みを聞き出し、妄想を抱かせ、因縁づけながら取り組みをさせる教えです。そして、教えの手口を知って離れてしまった人は「堕ちた人」として信者から引き離して、手口を知られないようにしなければなりません。
ネットでの荒らしはその手口を如実に現していると言えます。



~ 谷居 ~ 

「集団圧力、ねずみ算(ねずみ講)、そしてカルトについて」

一闡提さんの冷静な分析に、いつも感服したしております。大変興味深い、「集団圧力」については別記事にして、深く掘り下げて行きたいトピックです。

僕は反苑の会サイトを覗き、そこで脱会に関する相談をしていた時、そしてその後暫くの間も如苑に対しての『カルト集団』という概念は、正直なところ持ち合わせていなかったのです。自分がやっていた宗教が、まさか単なるカルト集団であったということ自体、にわかに信じ難いことであり、かつ認めたくないことでした。
しかし脱会を決意し、色々な方々の悩みごとや相談ごとを拝見し、そしてそれにレスしているうちに、段々と『カルト教』であるという確信が自分の中に芽生え、育っていることをリアルに感じています。
先のレスで一闡提さんがお書きになった「集団圧力」や、「ねずみ算(ねずみ講)」という概念に僕が気づいたのは、脱会してから暫く後のことなのです。そのことに気づかせてくれたのは、間違いなく反苑の会サイトです。自分一人、そして身内の間柄だけでは、このような冷静な考えに行き着くことはなかったのです。僕が、反苑の会サイトに感じている恩義というのは、この理由によります。
カルトの概念については、今は僕自身、深く勉強している訳ではないのですが、『一介の如苑信者が、カルト手口に気づいていく過程』というものを自分自身に照らし合わせ、できる限り冷静に分析して書き綴っていきたいと思っています。

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