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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

真如苑のカルト性 その1

~ 一闡提 ~ 
「カルトの概念とそれを取り巻く熱狂的な人々」

カルトとは「熱狂的な信仰」などの意味があり、一概に悪いばかりの意味ではないという判例もあるそうです。
ライブで芸能人に熱狂的になるのもある意味「カルト」的でしょうし、それは熱中する事でもあり、ストレス解消にもつながると思います。
また、ドラマなどのフィクションの訴えるものに人生を左右され、作者の人生観にあこがれることもあります。それを嘘と言ってしまえば楽しくないことでもあります。
一方、人の関係はお互い依存し合い、信頼も軋轢も生まれます。悪い意味で言えば、自分をとても重要な人であると、依存している人に自分に依存させることによって自らを保つ人もいます。
ある時は、その態度に優しさを持たせ、反対に罵倒することで相手を脅して共依存の状態にさせる手段も使われます。それは最近の言葉を使うと「モラルハラスメント」だと思います。
モラハラは個人間ですが、集団対個人でもその関係はあり得ます。教祖様に従う信者が、教祖(教団)が依存する信者に対して、とても為になる教えを施すことで、信者もその教え通りに取り組むことで幸福な気分になる。それは、信者に良き人生観を与え、道徳心を培わせ、周囲との融和が実現し、そんな良い教えならば我も我もと信者は増加するでしょう。それこそ、人類地球宇宙を救う教えだと思います。
しかしながら、そうした理想郷を掲げた宗教の中で、さらに信者に依存させようとカリスマ性を持たせたり、より大きな救いを示そうと努力し、競争も生じていると思います。
信者に救いを感じられなくなったらビジネスが成り立ちません。しかし、宗教ですからビジネスと思われては救いを感じられません。
そうした企業努力の中から、宗教と称した集団の中での人の心理を利用した集客、集金方法があみ出されていきました。
仏教と言うと安心しますが、一般的に仏教は葬式の時にお金を取るだけで、本当の供養ではないと流布することで、常に先祖の声を聞き、供養し続けるという究極の教えがあみ出されました。
「自分の周囲には霊、因縁が助けを求めており、この教えは先祖の苦しんでいた頃にはまだ開発されておらず、この時代にこの教えに結ばれたあなたに頼ってくる。」と。



~ 谷居 ~ 

「創られた因縁地獄」

前回の記事「反苑の会サイト」での、一闡提さんのトピックについて掘り下げて考えたいと思います。

一闡提さん:『馬の鼻先に人参をつけられて走らされてる人がふと気づいて立ち止まってしまったり、そこで得た地位のために踏み台にした人の手前後戻りできないために、権威教化などによってストレス解消をしたりする信者も出てきます。それらによっても「土台になれ。」と言われながらも耐えてきた信者に気づかせることもあるでしょう。
それは創られた因縁地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸である可能性もあります。』


一体僕は、20年近い歩みの中で何度この蜘蛛の糸を見過ごしていたことでしょうか。それは、『蜘蛛の糸が垂らされている』という認識すら伴っていない、ひどく鈍化してしまった心持ちだったのだと思います。

先ずは、入信直後から段々と鈍化していった自分の心の流れを確認しなくてはと思います。

如苑には、自ら進んで入信しました。20年近く前の頃、仕事では周囲は全てソーカ信者。その120%信用できない彼らとのやり取りに辟易とし、仕事を辞めたことをきっかけに、身内が入信していた如苑の方がまともだと思い、そのまともな宗教感覚を身につけたくて入信したのです。その時の自分は、ソーカ信者が目の色を変えて取り組む「シューキョー」という観念に、少なからず影響を受けていたのかもしれません。昔、20年以上前の自分は無宗教が身上でした。持ち合わせていた観念的な信仰心は、ご先祖に対する感謝の気持ちだけ。「あの時、ひいひいひいひいおじいちゃんが、肉じゃなくて魚を食べていたとしたら、僕は今この世に生まれていないだろう」というような、漠とした想い。偶然に偶然が重なって、それこそタンバク質の組成成分までの偶然の一致によって、今自分はこの世に生を受けている、と考えていたのです。その身上がどうしたことか、シューキョーに入信しようと思うほど、周囲に影響を受けていた入り口でした。

最初に帰苑した時、大勢が集まる迫力に圧倒されました。何が始まるのかも判っていないまま、M親の横に座り、開始の時刻を待ちながら事の成り行きを見ていた自分。そして定時となり始まった儀式。圧倒され見ていた、その『大勢の人たち』が一斉に三礼を始め、スムースに読経をし、厳かに執り行われる様子。理解できないまま、しかし深く考えることもなく「こんなものなのか」というニュートラルな気持ち。
とにかく、『接心』を受けないと何も始まらないとしか言わないM親。そうであれば、先ずは接心というものを受けてみよう。その資格に到達するまでは、ほとんど何も考えないまま始まった取り組みでした。

接心が受けられるようになり、初めて受けた初心者接心。その内容は、今ではすっかり忘れてしまいましたが、当初の僕には『因縁』が示されることはなく、「転ばぬ先の杖として、このありがたい教えに取り組んでいくのですよ」というような霊言が示されていました。

「何か問題があるときは、『因縁』が示されるもの。先祖の霊や、因縁が霊言で示されないのは、今が順調なのか、祈りが浅くて深いところまで霊視できないかのどちらか」というニュアンスのことを、M親から聞かされました。「私はあまり詳しく説明できないから、経親に相談する方がよい」とも、言われました。しかし僕自身は、自分の身に振りかかる問題について、赤の他人に相談することについては全く理解できなかったのです。上求菩提ということだったのですが、この観念は結局最後まで身に付かないままでした。

ゆっくりと、選民思想の朱に、赤く染まっていったのだと思います。仕事が順調に進み、生活に少しのゆとりを持てるようになっていった頃、「み教えのお陰で今がある」と、本気で思うように変っていました。
そのきっかけは、クルマでの大事故でした。「本当ならば死んでいた。教えの力で、救われた」と、異口同音に如苑信者から言われました。事故に逢ったその時、苑主の顔が目前にはっきりと浮かび上がってきたことが、自分の中でその言葉のエビデンス(裏取り)となっていました。高速道路で反転し、身動きが取れない状態。後続車両から衝突されたら即、死につながる閉じ込められた車内で、目の前に浮かび上がってきた苑主の顔。なぜ家族や親ではなく、苑主が浮かび上がってきたのか。その理由に釈然としないまま、それを機に10年ほど前からは「教えの力」というものを意識するようになっていきました。

次第に、『因縁』という方法論が自分の中で合致する考え方となっていました。楽な方に流れようとする『心癖』。それを引き起こしている真の原因は『因縁』によるものだという詭弁。「因縁を断ち切り、心癖を改めていくことで、人生は変っていく」そのように経親から言われ、「なるほど」と、関心していたものです。
振り返ると、ソーカ信者も異口同音であったことを思い出します。「宿命転換の教義」「題目の力で、自分の運命を変えることができる」と、ソーカ信者は言っていました。そのことを思い出しても、当時の自分は「ソーカは修羅につながる教義。摂受の心をはぐくむ真如苑とは対極。『宿命転換』なんて、できっこない。心癖を変えていかなくてはいけないという正論に、なぜソーカ信者は気づけないのかね」という、今考えると滅茶苦茶な理論に心酔していました。この滅茶苦茶な理論は、『因縁地獄』と結びついたものであったと思います。



~ 一闡提 ~ 
「操られるための思想に疑問を向けさせない様々な手法」

細く長く、常に信仰させるのが目的ならば、日常のあらゆる情報から教えに対して疑問を抱かせないような思考に変えなければなりません。
どんな事象も教えと準えて考えさせ、常に仏意といわれるものが何であるかを問い続けさせることが必要となります。
日常の出来事を仏意、救われない霊のメッセージとこじつける様に準えながら信者は教えや精舎の外であっても、向き合うことが救われる道だと思わされることになります。
そして、そのかけ離れた思考をスジ内で伝え、どちらともつかない霊言によって教えの都合の良い方向に思考が向けられることになります。
よく言われるのは、「良いことは教えのお陰、悪いことは精進が足りないから。」
最後には単純にそこに行き着くように思考を向けさせられているのですが、密教、仏意、霊界からのお示し(リブライ)、教学などの言葉によって単純なロジックに行き着かない場合が多いと思います。もちろん、入る前からそこに行き着く人が沢山いるから、現在のような苦情が多いのだと思います。
さて、人は何かそのように潔いというか単純明快なものに惹かれるのではないでしょうか。
しかし、カルト関連の研究者の忠告は、
①「無償の愛」にご用心
②矛盾する行動を取ってよい
③単純な答はない
④時々、位置を振り返ろう
⑤逃げ出すことを恥じない
とあります。
それはカルトの人を動かす力を認めた上での対処法と言えるのではないでしょうか。個人というものはそれほど弱いものだと言えます。
それを認めずに、「自分だけは大丈夫。」と思っているのが一番危ないと言われます。



~ 谷居 ~ 

「因縁地獄を解消してくれる単純明快なもの」

因縁とは、一体その実態は何なのだろうかと、最近はそれが判らないのです。そんな僕自身、如苑の信者時代には因縁が自分の中でしっかり定義されていたように思います。今現在、如苑の信仰をしている人たちならば、その色(因縁の実態)が、恐らく見えていることでしょう。

昔自分が思っていたことの一つ(それは奇しくもタレントのビートたけしがどこかで同じようなことを言っていたので、真似して書いていると思われるのは嫌なのですが)。たとえば、『赤い色』として自分が認識している『赤』は、他人が見ている『赤』とは違う色なのかもしれない。それぞれの人が、それぞれの感覚で『赤』を『赤』として捉えており、それは世間に共通する同じ『赤』の色。でも、もしかしたら他人には、自分にとって『緑』に見えている色が、その相手にとっての『赤』なのかもしれないという、不確定な『感覚』。しかしながら、世間共通の色として認識されているのならば、それが本当は赤であろうが緑であろうが、歴然とした『赤』なのだ、という考え。

その考えに照らし合わせれば、『因縁』とは、一体どんな色なのだろうかと思うのです。

『ご先祖が苦しんでいること』が因縁?それとも、『自分の今の生活に危害を与えるもの』?そうではなく『乗り越えなくてはいけないもの』なのか。つまりは心の持ち方一つで、どうとでも解釈できる玉虫色な存在なのだと。

精舎の中では、教えに結ばれ、迷い、因縁によって世間法に捉われてしまい、そしてその自分の間違っていた何かに“気づき”を見出し、再び教えに邁進することで、過去の自分では到底到達することなどできなかった境地へと如苑が導いてくれるという『プルーフ』が、毎回毎回展開されています。それらのプルーフは、最初の頃は僕の耳には届かない戯言でした。けれどもいつの間にか、自分にもプルーフで発表できるような“一発逆転”、“肝にストンと落ちる何か”が訪れるだろうと、浅ましい気持ちでの『現状打破』を、如苑の信仰というフィルターに通していた自分だったと思います。

何か困ったことが起きた時には、朝夕三礼してお題目を唱え、心に伊藤家を刻み、鑑定接心や相談接心にとりくみ、お護摩を焚いて、お施餓鬼をして、三つの歩みで徳を積んだら、後は『お任せ』。そうしたら、霊界が道をつけてくれていて、それまでの自分では辿り着けなかった境地に到達させてくれる。それは、何と単純明快であり、かつ気楽なものであるか。

如苑信者当時の自分には、それが自分にとっては気楽ではなかったと思います。接心で示される“ご霊言”に正面から取り組み、有相接心として実社会で露見される種々の“気づき”を理解し、乗り越えていかなくてはいけないということでしたから。けれども、人間が人間として真っ当に生きていく過程においては、如苑で『有相接心』と称される他人との関わりがあるのは当然のことなのだし、相手との相関関係においては我を通すだけではなく、バランスをとりながら歩まなければ人間関係が破綻するのは、今考えれば言うに及ばない自明のことです。如苑にドップリと浸っていたら、そんな当たり前のことにすら『お力の偉大さ』を意識させられてしまいます。けれども何より情けないのは、『生きていれば無念を抱えることもある。思い通りにならない人生だってある。でも、その分いい事だってあるのが人生』という、至極真っ当な考え方を僕自身が捻じ曲げてしまっていたことです。“無念”、“思い通りに行かない”部分は、『如苑に属していれば乗り越えられる』と思っていた自分です。

>信者に救いを感じられなくなったらビジネスが成り立ちません。
…(!)。一闡提さんのこの言葉に、再び冷や水をかけられた心境です。『人事を尽くして天命を待つ』という状態を、『人事を尽くして、お任せすれば、天命が来る』に変えてあげますよ、という甘言。それを僕は買いました。隠され、そして判り難かった如苑の中に、いつの間にか自らズンズンと入って行き、徳と因縁切りを買い漁っていました。この買い物に、もし心から満足していた自分だったら、もっとカルトにはまっていたのかと思いゾッとします。



~ 一闡提 ~ 

「因縁をつけられている信者とその周辺の人たち」

勧誘には人の不幸が伴わなければ、きっかけがつかめません。
そして、救われない霊などと因果関係をこじつけなければ、教えに繋げないため、ターゲットの心が弱っているときに集団の中に誘い込み、大勢の人が救われるために取り組んでいる姿を見て自分の境遇と霊との因果関係を信じるようにさせられていきます。
よく一般的に「因縁をつけられて難癖をつけられた。」という使われ方をしますが、ここでは言葉は柔らかくとも、「あなたの人生は間違っていた。しかし、このありがたい教えがそのあり方を示している。」と因縁をつけて、難癖をつけられていると言えます。
架空の救いを初心のうちは何度も示されて、周囲の人の姿を見て納得し、日々の事象は偶然ではなくみ教えにはお見通しだったことであり、もっと教えを深く知らなければ人間には予測できない危険を教えが示してくれなくなると思わせて、更に教えに依存させようとします。
そして、スジ親などの苦言呵責や霊言による教えへのこじつけは因縁を付けられているのと気づかず、「ハイ、ハイッ。」と有り難く人間には洞察できない予言のように思いこまれさてしまいます。
一厘の狂いの無い霊言はあの手この手で教えの示す因縁に屈した心が受け入れてしまった思考によって成り立っています。
だから時と場が必要であり、その因縁をつけることがハラスメントであると思わずに、その人が因縁に屈して教えを尊いと思わせるための心への攻撃であると言えます。
それにはある種「潔さ」、というよりも「執拗さ」を感じます。
その緩い力で何度も何度も攻撃された心は、思考をすり替えられ、何代前か分からないご先祖さまが示されても、いつ生き絶えたか分からない、本当にそこで亡くなったか分からない地縛霊が示されても、信じる心となってしまいます。



~ 一闡提 ~ 
「金の切れ目が苑の切れ目の解釈」

よく、金を払えなくなったら苑との繋がりが保てないと言われます。積み上げれば高額な取り組みが要求されるために、続けられないことも含みます。また、総本部に遠い人は、智流院に入れば、定期的な親苑帰りが義務づけられるために、交通費地獄と言われる状況に陥ることもあります。
「苑費は教えとの生命線」と言われるように、最低でも苑費を支払っていないと救われない、尊い教線に結ばれない、と言われています。
領収の出ない取り組みは、後でインチキに気づいても泣き寝入りするしかないことも意味しています。
その構造は、ある程度信者が信じるようになれば、救われない霊の数だけ取り組みが増えます。勧誘して信者が増えればネズミ講型の組織の構築は実現していきます。
勧誘して実質的に信者が増える取り組みもありますが、救われない霊の数も増えることで、信者がネズミ講的に増えない前提を補っていると思います。
その構造を考えると、信者が5人勧誘して智流院に入業しても、2人しか歩まないとします。しかし、その2人の取り組みはその2人に5人ずつ救われない霊が示されれば、勧誘の頭数以上にネズミ講型取り組みとして取り組みの単価の数だけ資金源が入るということになります。
これは、霊感ネズミ講型の取り組みと言えるのではないでしょうか。
こうしたメカニズムは一見分かりませんし、信者として徐々にマインドコントロール技術を使われながら、精神に攻撃を受けると、取り組みに疲れさせられ、疑うことは罪と思わされるために、なかなか気づきにくいものとなります。
この、一見仏教であり、宗教的な取り組みが、少額で取り組みを多くさせることで、架空の霊感サービスをネズミ講的に展開しているのが分かります。



~ 谷居 ~ 

「因縁地獄の入り口」

接心修行がどの程度自分の役に立つものなのか、果たしてその実感がつかめないまま、僕の如苑信者の歩みは続いていました。接心修行の取り組み方を解説するビデオがその待機部屋で流れていて、結構真剣に見ていたものです。そのビデオが言うところの如苑における接心修行とは、以下であると理解していました。
 ・顔についた汚れは鏡に映さなけければ見ることができない。それと同じように、
  心についた汚れは接心で『霊能の鏡』に映さなければ見ることができない。
 ・アテモノやお伺いとは違うものである。
 ・接心で示される霊言は、真如霊界で両童子(さま)が相談したもの。
  それを、霊能者を通して聞くもの。
しかしながら今、冷静に振り返るとこの解説ビデオは『不幸なことが起きている状態の人が接心に取り組む』という大前提が、導入部分に示されていることを思い出します。その『不幸』を、“顔についた汚れ”に結び付けているような感じです。
接心修行で示される霊言は、漠然としていて理解できないことが多かったのです。そんな、モヤモヤした判りにくい言葉を顕在化させるのは、“家庭集会”の役割だったように思います。経親が音頭を取り、ご霊言に示されている裏の意味や(つまりは詭弁)、日常生活におけるトラブルに対する“気づき”を見出すこと(つまりは詭弁)の、丁寧で如苑的解釈な解説を受けていました。
そうした家庭集会で、「今、私は全てが順調。順風満帆の何不自由ない生活を送っています」と言い切れる人がいるのでしょうか?余程の自信家か、身勝手な人以外で、そこまで言い切れる人は皆無でしょう。たとえある程度順調な生活をしている人でも、「私の生活は、ここが順調。でも、ああいうところをもっと改善したいと思っている」と言うのが普通。そして少しでも弱味を提示しようものなら、すぐさまそれが経親のエサになっていたのです。『改善したいと思う気持ち』 = 『ご先祖が助けを求めている現象が顕在化しようとしている』とか、その辺りは後付けで、何とでも言えるのですから。
そうして、家庭集会で徐々に植え付けられていく負い目を背負いながら、無相の接心を受ける度に負の妄想はどんどん膨らみ、あれも因縁、これも因縁と、解釈するように段々と僕は変って行ったのだと思います。



~ 一闡提 ~ 
「人の妄想に巣食いながら教えに従わなければ救われない妄想を植え付けていく教え」

不幸な境遇の人の心には妄想も起こるでしょう。そして何か人の力では助からないような気持ちの時に、この教えは人間の範疇を超える力を示してきます。
そして、自分の心と霊界との媒介なども示しながら、徐々にある妄想を植え付けていきます。
それは「教えの力によって、霊界にいる先祖の苦しみを救うことによって、現在の自分の不幸な境遇が改善され、子々孫々救われていく。」という妄想。そして徐々に「教えは深いものであり、終わりなく取り組まなければならない。そして、歩みを止めたら救われない先祖の霊や、地縛霊の因縁によって倒されてしまう。」そうした妄想にすり替えられてしまいます。
初心者にはあまねく力が流れる教えでありながら、取り組みが進むと、教えの力は限られており、自分が取り組み続けてそれについていかなければ取り残されてしまう。そして、因縁に倒されてしまうというのです。
20年以上前に出た批判本の言葉を引用すると、「抜苦代受は取り組みが進んでもう抜けられなくなった頃に限られた力の『劣悪品である』と告げられる。」ということになり、現代の気をつけなければならない商法にも似ているのではないかとも思います。
この教えは不幸による妄想がエネルギーですから、平常時も「今何事もないのも教えのお陰で、地縛霊も含めた有縁無縁霊が歩みが深くなって徳が上がれば更に自分を頼ってくるから、常に取り組まなければならない。」ということになります。
そして、その人に起こる幸福、不幸の波の中の不幸の状況の時を狙って、更に救われない霊と因縁づけて取り組みを増やします。徳が上がれば、奉仕の種類も増えて、日常の時間を割かなければならなくなり、日常の不幸には敏感になり、幸福の時も「まだ足りない。」と次なる因縁に備えて歩む精進となります。
この妄想の悪循環によって、霊因縁によるねずみ算式に単価が低く設定された取り組みの積み重ねによって、最近の雑誌にも取り上げられるような状況になっていると言えます。



~ 谷居 ~ 

「因縁地獄の一丁目」

接心修行を受けた後、あれも因縁、これも因縁、と思う気持ちが深まっていったきっかけ。一つは前述の、家庭集会による経親の解説でした。それにより、判り難かった霊言が自分の中でハッキリと顕在化し、「これが因縁なのだ」という確信を持てるようになっていました。

そして、もう一つは相談接心・鑑定接心だったと思います。毎月、恒常的に受けている向上接心では、イモ洗い式なので深く因縁が示されることが稀有だったと思い出します。事の問題は向上接心よりも、自分の悩み(=弱味)を心底、何とかしたいと思ったときに受ける“相談接心・鑑定接心”です。仕事で行き詰まった時。人間関係で問題を抱えた時。決まって「相談接心を受けた方が良い」と言われました。仕事が大きく変化する節目には「鑑定接心を受けなさい」と言われました。
本当は、僕自身では「自分の悩み事に、いちいちお伺いをたてるのはよくない。それ(お伺いをたてるための接心)は、信仰を冒涜(ぼうとく)する行為なのではなか」という疑念もありました。しかし、経親、導き親はこぞって「受けるべき」という意見を持っています。そして、受けた後に“上求菩提”をしないといけないことであるかのような言い方を、経親はしてきました。

そうして、相談接心・鑑定接心で示される“因縁”は、ハッキリと理解できるものになり、それが終わった直後、そして毎月の帰苑の度にお護摩、お施餓鬼が増えていきました。谷居・主系のご先祖/ 傍系のご先祖/ 自宅の地縛霊/ 会社の地縛霊/ 会社上司のご先祖/ 会社社長のご先祖/ 先祖が殺生したクジラ/ ●●の病苦で死んだご先祖 等々。そして、示されもしない知人のご先祖、お救けをしたい相手のご先祖など、キリがない状況。しかし、そうすることで因縁が切れるならば、1体500円なら安い買い物だと思っていました。

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