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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

真如苑のカルト性 その2

~ 一闡提 ~  2010/01/12 20:20
「取り組みの数の多さのネズミ算」

年間2,400円の安い会費で、会費だけでも約90万人の信者から20億円以上の収入であると、ある雑誌にありました。
それは、無断入信による信者の立て替えの問題があるとすると、一人が平均3人立て替えていれば、20万人から30万人の人がそれを立て替えていることになります。それも勧誘が第一義の教えではネズミ算が働いていると言えます。
一人の信者に対して救われない霊の数、奉仕の数だけ接心、護摩、施餓鬼の数が増えていき、所属も増えれば問題も増える。そう考えると、人の頭数が増えるネズミ講型取り組みが破綻することも想定した、個人の取り組みが増えることでネズミ算が働く、ハイブリッド・ネズミ講型組織であると気づきます。
歓喜や奉仕よりもお救け(勧誘)が2倍の精進であると言われますが、2倍どころではないことが分かります。



~ 谷居 ~  2010/01/12 21:30
「因縁地獄の只中で」

自分の中に、明確に同居していた気持ち。心のコントラストに光と影が必ずあるとするならば、それは影の気持ち。「因縁が示される安堵感」です。それは、ぼんやりとした心の霧が晴れて、明確な答えを見つけた時のような気持ちです。

何か、物事が上手く運ばない、思いとは裏腹に結果が望むものにならない時。それが、人生の節目や大きな悩みを抱えているときならばなおさら、自分の周囲のどこに因縁があるのかを探ってもらい、それを解消することで先行きが明るく開けるのではないかという期待感。そんな気持ちを、明確に持ちあわせていました。

悩み事をお伺いするのは良くないことだと自覚しながらも、示されることで「あぁ、これでもしかしたら何とかなるかもしれない」という気持ちにさせてくれる『接心修行』でした。ですから、示された霊に対する施餓鬼と護摩は欠かせないものでした。施餓鬼、護摩を運びつづけなければ霊が救われないという教えは、怪しいと思いながらも裏腹に、欠かすことが怖くなるものでした。

それでも、まだ事が好転しない時。最早、自分の考えは大きく飛躍し「霊能者になるべきである」という結論を出したのだと思います。
接心を享受する人と、それを送り出す霊能者。このコントラストの中で、如苑に歩み始めた当初の自分は「必ずしも全員が霊能者になる必要はない」と思っていたのです。自己を研鑽するための信仰であるならば、霊言に従い、自分の足りないところを磨いていくだけでよかったのです。
しかし、信仰の目的が (自分自身の浅ましい打算を理由に)『自分の因縁切り』へとすりかわってしまった自分は、霊能者になることで真から自分の因縁を切りはなし、「世のお使え人」になるべきだと決めてかかっていました。
そして、その一歩は大乗の会座。それには“お救け”の実績が必要なのですが、「なぜ精進するのに勧誘しなくてはいけないのか?」という疑問は、既に忘れ去っていたのです。それを忘れさせるに充分な詭弁(騙し)が、苑の中に多く見受けられます。お釈迦様の弟子の一人が、7人(だか何人だか?忘れてしまいましたが)の同胞を引き連れてお釈迦様の許へ戻った話(※)なども、その一つだと思います。

※話の詳細を覚えていないので曖昧な表現で申し訳ございません。




~ 一闡提 ~  2010/01/12 22:21
「カルトの熱狂的な意味だけでない解釈」

カルトは「正統的ではない」、とか「趣味などで愛好者による熱狂的な支持」も言います。
破壊的カルトという概念は、「グループのリーダー(教祖)を妄信的に崇拝させ、メンバ-に絶対的な服従を求めさせながら、リーダーに貢がせる組織」が典型的です。
それを実現するために、信者に集団の中での心理を利用して、あたかも教えが正しいかのように思わせ、情報を操作して、リーダーへの印象も操作します。
そして、今生きられるのもリーダーのお陰であり、そこに所属することがとても素晴らしいことであると吹聴し、その組織での地位を社会でのそれよりも尊いと思わせ、本当の信仰だと思わせます。そして、カルトのリーダーの力に依存することを求められます。
そんな構造を、10カ月の入信で見抜いた人も居ますし、私のように6年以上も気づけなかった人など様々です。ハイハイ、と調子の良い言葉で教えの正しさをエピソードを交えて騙る指導者は確信犯であると言えます。
そんな人材を教師として持ち上げ、国の省庁の名簿に載る僧侶であると平気で嘘をつける集会などの場が設けられていることに憤りを感じます。
よく掲示板などで寄せられる、「本人は信仰をして熱狂的でいられるけれども、その周囲の人が迷惑や悲しい思いをしている。」と言われているのが問題だと思います。
そのメカニズムは、教祖一族を崇拝させ、家族のためと言いながらも、教祖一族のために家庭、職場、社会を犠牲にして取り組まざるを得ない状況に、強制ではなくともさせる事を強いていることは明らかです。



~ 谷居 ~  2010/01/14 10:30
「『真如苑ってカルト?』という無知」

「霊能者になろう」と決意し教えに真剣に取り組もうと決めた時、どうしても清算しなくてはいけない問題が、自分の中にありました。経親の許せなかった行為を、やはり看過すべきでないということです。それは、何年も前のことだったのですが、潔癖でいようと決めた心には、古いこと、新しいことなどという区別はありませんでした。
その問題で部会長を巻き込み、さらに経親と絡んでトラブルとなり、その経親から恫喝されたことで教えに対して深い疑問を持つようになりました。
 ・経親は、全く自分の非を認めない。それどころか、まるで逆ギレ。
 ・疑念を持つこと自体、まるでこちらが悪いと言わんばかりの責め言葉と脅し言葉を発している。
 ・この恫喝が、“摂受”の教えに基づいたものなのか?仮に1,000歩譲ってこちらが
  悪いとしても、言い方ってものがあるのではないか。
 ・梨花の冠、瓜田の靴。経親の疑わしき行為が僕の曲解だったとしても、きちんとした理屈で説明すべき。

僕がその時に、正論を言っていたという気持ちは、今もって確信しています。

そしてその後、反苑の会・掲示板に書き込みをしました。それは今読み返してみると、紛れも無く自分が如苑の信者であったと自覚する文章です。
この段階の僕は、如苑を“カルト集団”だとは思っていなかったのですが、脱苑を決意してから後、暫くの間も、やはり如苑が“カルト集団”だとは思っていなかったのです。

どうにも自分は、“カルト教団 = 破壊的行為をする教団”という短慮の念を持っているようです。その意味においても、世のため人のためというスローガンで動いている教団が、まさかカルトだとは思いもよらない自分でした。それは、完全に知識の欠落です。カルトの定義と如苑の実際とを照合する以前に、その考えまでたどり着かないのです。特に、信者であった時分は完全にそうであり、思考停止状態でした。



~ 一闡提 ~  2010/01/14 12:44
「カルト性を露骨に示す信者」

この教えを信じている頃は、導き親などに多少の欠点があろうとも、「自分の鏡として、自分も同様な部分を見つめなければならない。」と思い、「その人はまだ修行中の身である。」と思うのが通常だったと思います。
「この教えに結ばれたのだから、徳のある先祖がついており、本人も磨けばそれが花開くはず。」とも思っていました。
しかし、それをも通り越して、「この人は本当に向上しているのだろうか。」と思ってしまったり、更に「この教えで本当に自分は向上できるのだろうか。」と思ってしまうと、それまで行ってきた「一貫性のある自分でいたい。」という心を捨ててまで、「このままではいけない。」と思えてしまいます。
そういう心理に陥っても、次なる教化が用意されています。「あなたは取り組みが少ないので、もっと取り組んで徳を磨かないとそういった邪な心が浮かんでくる。この尊いみ教えにめぐり会ったのだから、悦んで精進させていただきましょう。」と。そして、それまで植え付けられた教えによる妄想を刺激されながら、集団圧力の中、選民意識を煽られ、自らの教えを疑うのは悪意であると懺悔させられます。
しかし、組織が大きくなり、人も入れ替わりが激しくなると、毎年のマンネリ化した取り組みに救いを見いだせなくなることもあります。
そこに拍車をかけるのが、教えに酔わされた熱狂的な信者の狡い取り組みにより霊界への実績報告がされているのを見て、「霊界はお見通しでは無いのではないか。」とか、「お見通しなのになぜカードを通さなければ把握できないのか。」などと思える疑いです。
そうした心理に行き着くと、今度は地獄絵図が見えてくると思います。立派な建物で信者が悦んで取り組んでいますが、嘘をついてでも入信させて人を連れてこなければならず、それは自分の社会的信用を落とすことである、と思ってしまいます。
それらに気づいてしまった人に対して信者は、執拗な嫌がらせをして教えの力のようなものを示そうとする場合と、さっと引いて次なるターゲットに労力を費やすタイプがいると思います。
前者のタイプが多くなるのならば、教えから離れられないための縛りを、指導者に仕立てあげることで早く施すことが狙いだと考えられますが、同時に教えから醒める人を増やすことになります。
私はそのタイプの人に醒めさせられて、これくらいで済んだと、今は思えます。

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