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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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夜明けを望む心持ち。青空を待つ気持ち。

~ 谷居 ~  2010/11/19 02:00



「夜中に目が覚めて、『このまま朝が来ないで欲しい』と願った。朝が来れば、また辛い一日が始まると思うと、とても耐えられない」

私の大切な人からこの言葉を聞いた時、私はその人を真如苑に勧誘しました。少しでも気が安らぐなら、心を平穏に保てるのならと願ってのことでした。お金の心配はかけたくなかったので、苑費、歓喜、護摩、施餓鬼は自分が負担しました。それでも、接心修行は受けて欲しいと願いつつも強くそれを勧めることはできなかったのです。
帰苑する手間隙(てまひま)の時間的、金銭的負担を考えると、いくらそれ(接心修行)が良いものとはいえ、無理強いすることができなかったのです。「いつか状況が整って接心を受けてもらえるようになればいいな」というのが、私の願いの一つでした。

思い出せばこの頃から少しずつ、薄皮を剥ぐように“脱苑”に向けた気持ちが動いていたのかもしれません。否、正確に言うと、真如苑の意図するところと自分の気持ちとが乖離しはじめていたのかもしれません。

辛いことがあるのならば、なおさら接心修行を受けてもらえばいい筈なのに。それでも、そんな“精神鍛錬”そのものが、その人の更なる重荷になることが何となく判っていたので、接心を勧めることをしなかったのです。

目の前にある現実問題。それを解決するのは、人それぞれの個人の力と、手助けしてくれる人たちの力、そして時間という力なのだと最近は思います。それは時に苦しいことであり、途方もなく地味なことでもあるのです。

それは、真如苑が差し伸べる“安らぎ”とは対極にあります。真如苑が安らぎの中に隠し持っている“華やかさ、派手さ”とは対極にあります。真如苑のように、解決の糸口を判りやすく示してくれたりもしません。時に冷酷であったり、時に人を切りつけるような鋭利な言動であったりもします。

それでも、時に暖かいのだと思います。その“暖かさ”を見出すためには、現実の中にしっかりと身を置いて、地道に、一歩一歩を踏み出すしかないのだと思います。

上記は、信者の方に向けている言葉です。


他方、大切な身内が真如苑に絡めとられている時、どうすればいいのだろうかと悩みます。
その問いに対して上記の「一歩一歩を踏み出すしかない」というのは、それはあまりに不遜な答えだと思っています。信者と、非信者とのちぐはぐなコミュニケーションをどうするべきなのか。どうすれば、真如苑が「インチキ・騙し・ねずみ講」だと理解してもらえるのか。ミスコミュニケーション解決の糸口は、どこにあるのか。

信者は、自分がそうであったように、どこかしらの『現実逃避』をしています。現実に立ち向かうフリをしつつ、根本的な解決を真如苑に託して、現実を先送りにしています。その『現実逃避/ 先送り』に気づくかどうかが、いくつかの糸口の中の一つのポイントになるのかもしれません。

・現世の苦しみは、ご先祖様の苦しみの顕在化である
・悪いことが起きるのは『因縁』のせいである
・自分が事故に遭ったのは、『人と衝突する因縁』を持ち合わせているから
・敵対する相手のご先祖様の霊を清めたら、その人と和合できる(理解し合える)
・真如苑を疑う気持ちは、『信仰障害霊』の仕業によるものである

これらは、現実逃避/ 先送り以外の、何であろうというのでしょうか。それでも、信者は本気で心の底からそう信じています。

手品のタネは、気づいてしまえば簡単なことばかりなのに、騙されているうちはそれに全く気づくことができないのです。

・現世の苦しみは、ご先祖様の苦しみの顕在化である
 <手品>
真如苑に結ばれて、ご先祖様は喜んでいます。

・悪いことが起きるのは『因縁』のせいである
 <手品>
ご先祖様の中で、●●で苦しんで亡くなった人がいます。
 そのご先祖様の苦しみが、アナタの●●に現れているのです。
 そのご先祖様は、喋ることができないから、尊い教えに結ばれたアナタを頼って
 ●●の苦しみを示すことで、アナタに救いを求めているのです。

・自分が事故に遭ったのは、『人と衝突する因縁』を持ち合わせているから
 <手品>
他人を責める、怒る、怒らせる行為は、『衝突する因縁』を持ち合わせているからです。
 そのような心持でいれば、人とぶつかります。交通事故(衝突事故)を起こすのは
 人とぶつかり合う因縁が消えていないからなのです。      

・敵対する相手のご先祖様の霊を清めたら、その人と和合できる(理解し合える)
 <手品>
職場で、学校で、どうしても判り合えない人がいます。
 それは、アナタのご先祖様と、相手のご先祖様が霊界で和合できずに対立しているから。
 自分のご先祖様だけを清めても、その相手と真に和合することは出来ません。
 相手のご先祖様にも、お施餓鬼を何度もお運びすることで、少しずつ相手が氷解していきます。
 そのためには、相手に対して常に笑顔で接し、何を言われても、にっこり笑っていましょう。
 アナタが現世で相手に常に和合の気持ちで接していれば、ご先祖様の霊がお施餓鬼で清まれ
 ば、自然と相手から、アナタに優しく接してくるようになるはずです。

・真如苑を疑う気持ちは、『信仰障害霊』の仕業によるものである
 <手品>
 アナタの心のどこかで、教えに真剣に取り組めないという気の緩みがあります。
 それは、アナタのご先祖様が今までに『ご利益信仰』をしていたせいです。
 真如苑は、ご利益信仰ではありません。だから、この教えの真髄がアナタのお腹の中で
 “体得”できるようになるまでは、苦難の道のりがあるはずです。
 その苦難の道のりは、今までご利益信仰ばかりをしてきたご先祖様を清めきるまでの
 道のりと同じだと思ってください。一度のお護摩、一度のお施餓鬼では、とても清めきれる
 ものではありません。お護摩、お施餓鬼は、一度運んでその10分の1がご先祖様のものに
 なるのです。だから、10回運んで、やっと1回分です。ご先祖様は、それまでに何度
 『ご利益信仰』をしてきたことでしょうか。その分、清めきるのに時間がかかるのは
 当然です。そして、清めきれない分だけ、アナタに『信仰障害』が働くのですから、
 真如み教えに結ばれているからと、油断してはいけないのです。

そんな言葉の手品のタネを、冷静な非信者の方に考えてもらいたいと思いました。私では、タネを明かしきることができないと思います。


真如苑という煩わしさのせいで、心がどんよりと雲ってしまう。そして、青空を待ち望む気持ちの方がいらっしゃるとしたら、どうすれば良いのかと私も悩みます。

私は信者であった時の気持ちを吐露することで、その解決の糸口のきっかけにでも、もしくは取っ掛かりの入り口にでもなれば良いと、願うことしか今はできません。

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