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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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誰得?

~ 谷居 ~  2011/7/21 3:00



『誰得?』という言葉をネットで見かけて、それが心に引っかかっています。

特定行為に対して、『そんなことして、一体誰が得するの?』という疑問です。

三つの歩みは、誰得?ですか?
信者さん、もしかして、得するためにはやっていないって?
いえいえ。そんなことはありません。他の為に尽くす行為だとしたら、尽くされた誰かが得をしている勘定になります。

歓喜は、一体誰が得するのか。

生活が苦しい状況にあっても、お金に執着する浅ましい心を捨て去る意味で、歓喜はかつての自分に必要な行為でした。
そして『心から喜びの気持ち、感謝の気持ちをもって』歓喜をすると、不思議とその分、何かしらの見返りがありました。(あったように錯覚していた、というのが今となっては正しい物言いですが)
ですので歓喜は結果として、信者時代の自分には不可欠な行為でした。
「何らかの形で戻ってくるのだから、感謝の気持ちを持って歓喜をする」ということが、まるで呼吸をするかのごとく、水を飲むかのごとく、自然な心持でいました。

で、歓喜は最終的には『誰得?』

一度に1万人が帰苑して、一人が1,000円の歓喜をすれば、10,000,000円の現金収入が苑に入ります。

で、結局の所、歓喜は誰が一番得をするのか。



ご奉仕は、一体誰が得をするのか。

自分のやりたいこと、自分の私的な予定だけを最優先させれば、「ご奉仕」は成り立たない。友人との約束がある時に限って、または行ってみたいイベントがある時に決まって「ご奉仕」の依頼が重なる。そんな時、自分の私的な予定だけを最優先させると、「世間法」に飲み込まれてしまうのである。だから、時として滅私の気持ちをもって、「ご奉仕」に参加しなければいけない。そして参加すれば、そこには何かしらの『気づき』や『み力』というものがあるのだ。『行ってみなければ始まらない』のである。と、かつての自分は思っていました。

で、ご奉仕は最終的には『誰得?』

精舎内の案内係、交通整理、誘導、掃除などの人足を、タダで手配できる真如苑。

で、結局の所、ご奉仕は誰が一番得をするのか。




お救けは、誰得?

お救けは、自分の信心の度合いが試される場である。自分が教えに対して、心のどこかで疑問を抱いたままでいると、その心が相手に「鏡」となって映しだされるのである。つまり相手が、自分の話に納得しないで疑問を持つようであれば、それはすなわち自分が教えに対して真剣に取り組んでいないことの証である。

と、言われていました。今思うと、すごい詭弁である。すごい、滅茶苦茶な理屈の詭弁。

「役者というものは、感情移入は98%にして、残りの2%で冷静に、客観的に自分の演技を同時に吟味していなければいけない」と、とある演出家が語っていました。

前述の、お救けに関する言葉は経親から聞いたものです。「真如み教え」に対して、100%の感情移入というか、トランス状態で臨まなければ、お救けは成就しないと言っているのである。勿論この言葉には、以下の補足がついてきます。
「お救けは、自分が相手を勧誘してやろうという気持ちを持っていてはダメ。相手の為に、この教えの素晴らしさを語ることが大事である。双親サマへの祈りの心を持って、教えを語らなくてはいけない」と。

それは、本当に遣りきろうとすれば、相当なトランス状態である。それだけ入り込めば、上手くギアがかみ合えば一人くらい騙せる時もあるでしょう。。。

「教えを100%信じる」という時点で、先ずは自分自身を騙しているのです。敵を欺くには先ず味方から、と言いますが、人を騙すには先ず自分から、という状態なのです。

お救けは、先ずは自分が得します。
3世帯を取り込めば、会座に参座できる資格が与えられる。7世帯で、智流院を卒業できる。など。

真如苑の中でだけ通用する資格や取り組みのために、他人を巻き込まなければいけないという厳格なる事実には、信者は不思議と目を向けられなくなるのです。

自分が得をすることの為に、理由はともかくとして『他人を巻き込まなければ成立しない』というシステムに、一向に疑問を持つことがなくなってしまう。

それは、恐ろしいことです。

そうして信者が得をしたその先に、真如苑が会員数をねずみ算で増やしていけるという「得」があるのです。


真如苑信者は、かつての自分を含めほとんどがいい歳をした大人で構成されています。
その大人が、自分のしでかしている行為に対して深い吟味をせずに、他人に強要するのは恥晒しもいいところであると思うのです。

三つの歩みの中で、他人を巻き込まなければ成立しないのは「ご奉仕」と「お救け」です。最低でもこの2つの事柄に対して、『何故』『何の為』そして『誰が最終的に得をするのか(誰の為)』ということを、深く深く、吟味する必要がある筈です。

・それで、相手は本当に納得しているのか?
・それは、客観的に見て、相手の為になっているのか?
・それによって、相手と自分は、より良好な関係を持つことができるのか?
・何の為に、それを相手とシェアするのか?
・そのシェアによって、自分たちに何らかの有益性はあるのか?

信者の方々には、それらの吟味を『真如苑の都合』から離れて、検証する必要があるのです。単純な、真如苑からのウケウリではなく、自らの意志でそれを考える必要があるのです。

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