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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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真如苑信者の非道な勧誘手段

~ 谷居 ~  2011/11/19 3:30



私は結構頻繁に、yahoo知恵袋で“真如”というキーワードを検索し、“han_en_tanny”というハンドルネームで、回答しています。
そこには、信者と断定できる幾人かの、人の道を外れたような書き込みもありますし、茶化した意見も時々見られます。けれども一方で、反苑の会ではお見受けしないハンドルネームの方からの、核心を捉えた明晰な書き込みも、結構な頻度で見かけます。それによって、真如苑の虚偽とは疑う余地のないことだという確信を、改めて思い知らされるのです。

私も、できる限り質問者の役に立てるようにと心がけつつ、回答をしております。

今回はその知恵袋で見かけた、余りに非道な勧誘について考えを述べたいと思います。

その知恵袋への問いかけとは、数年単位の余命を宣告された姑信者が、息子にあたる質問者様の旦那さんを通して、勧誘してきたというものです。

そこに見られるキーワードは
・旦那さんにとって、また奥様にしてみても義母への親孝行としての入信を推奨
・質問者様の入信によって姑さんが安心する
・取り組みに掛かる費用は少額
・入信しても勧誘の必要はない
・変な宗教ではない

そして、更に綴られているのは
“旦那さんは、入信して考えが変わった”
“周囲の信者は、熱心に自分達のことを考えてくれる。それが嬉しい”

というものですが、私にとって心が痛いのは、その後に綴られていた文章です。

“(質問者様が入信を)断ったら「俺の家族のことは俺と家族とよくしてくれてる信者さんと考える」と(旦那さんが)言ってます。”

という、一文です。

質問者様は、その言葉を“排他的”だと仰っています。


真如苑というものは、そこと距離があるうちには問題が表面化しないのですが、距離感が適切でなくなった途端に、角のごとく悪影響を及ぼすものであるということに、愕然とします。

真如苑という、囲われた世界の中で展開される“常識”。それは、世間一般の常識とは異質なものばかりです。
けれども、その異端が“真理”であるかのごとくに錯覚するのが信者なのです。



話は、一足飛びに移行しますが・・・。
“死”という、絶対的な別れがもたらすものは、“無”なのだと私は思います。ところが私自身、いつかは死んで行くのだという明確な自覚があるにも関わらず、それでも私が今を生きる上では、その自覚は大した作用をもたらさないのです。

けれども、“死”を現実のものとして目の前に迎えたとしたら・・・。その時の心境は、想像に難いことです。

私は信者時代、九死に一生を得たという場面に遭遇しました。その時は死の淵で、教主の顔写真が遠くの方からクルクルと回りながら、目の前に近づいてきたことをハッキリと覚えています。大して熱心な信者でもなかった自分が、何故その時に教主の顔を思い浮かべたのか。いつも自分を支えてくれ、生活を共にしている家内ではく、また自分を育ててくれた両親ではなく、何故教主の顔だったのか。
その疑念は、今もって晴れないのです。依存心や潜在意識の領域での洗脳効果と、大よそはその辺りの現象であるとは思うのですが、それを学術的に理解するこはできない私は、漠とした感覚としてだけで“洗脳されていたのだ”と思うのです。


死は、孤高なる孤独の行き着く所です。死んでしまったら“無”になるのです。家族との関わりも、あらゆる身の回りの物事との関わりも、それらの全てを問答無用に断ち切るのです。
だからこそ、今生きていることそれ自体が尊いことであり、周囲との関わりが尊いのです。
個性も、わがままも、威厳も、自尊も、恐怖も、喜びも、迷いも、確信も、死んでしまえばそれっきり。もう、何も現われることはないという、普遍なる特別。

偏らずに考えれば、生まれたのだから死んで行くのだという、それだけのこと。でも、生まれることが特別なことであるように、死ぬことも同じように特別なことなのです。気づかぬうちに受けた生を、明確な意志を持った状態で終末とさせなければいけないのが人生。その、生と死との境にあるのが、“意識”の顕在化であると思います。


死生観は、人それぞれでしょう。私にとってはそれが私の死生観であり、身内も子供も他人も、それぞれにまた別の死生観を持っているのです。



話を少し戻します。
質問者様の旦那さんの死生観とは、どういうものなのでしょうか。その死生観の延長線上に、旦那さんのお母様である、質問者様の姑さんへの想いが垣間見れるのです。

・親孝行
・姑さんの安心

というキーワードが、そこに深く根付いているように見受けられます。

姑さんの心には、真如苑が深く深く関与しています。それを“寄生”と捉えるか“共存”と捉えるかで、物事の解釈が180度変わってしまいます。
この旦那さんにとっとは、それが“共存”であるということです。そして旦那さんの心にも最早、真如苑が深く深く関与しているのですが、質問者様にとってそれはどちらも“寄生”であるということです。


信者と非信者との間に生じる、絶対的な価値観の相違。それが、真如苑が及ぼす悪影響の一つでしょう。

信者にとっては、真如苑が絶対無二の存在であり、その世界観でしか物事が動かないのです。そのバックヤードがあるからこそ、先のキーワードの
・旦那さんにとって、また奥様にしてみても義母への親孝行としての入信を推奨
・質問者様の入信によって姑さんが安心する
という、旦那さんの身勝手な考えが生じるのです。

真如苑が絶対無二だからこそ、皆が入信し、足元の和合が生まれることが究極の親孝行となります。
真如苑だけに真の救いがあるからこそ、皆が信者になることで姑さんが心の底から安心することができるのです。


真如苑という、そこだけにしかない絶対的な価値観が、旦那さんの考えを内へ内へと向かわせ、その価値観を分かち合える者同士でしか共有することができない“世界”を造りだすのです。

それは結果として

「(質問者様がその世界観を理解してくれないのらば)俺の家族のことは俺と家族とよくしてくれてる信者さんと考える」

という排他性へと繋がるのです。



私が苦しく思うのは、排他的で攻撃的で、理解のない旦那さん自身が、真如苑に蝕まれている被害者であるという事実です。被害者でありながら、厳然たる加害者となって身内や他人を苦しめる人であるということです。真如苑被害のやりきれなさが、そこにあります。一体にして加害者は、誰の為に、何の為に加害者として振舞うのか。
幸せを願う気持ちを利用され、真如苑に騙されている被害者が、自らの幸せのために、そして周囲の幸せのために、人に対して加害者となるのです。


この質問者様の旦那さんは、質問者様への“勧誘”において、相当に無理強いをしています。今風の定義で言えば、それは“ハラスメント”と同義のものです。
勧誘の背景に“死”という究極の局面をちらつかせながら、「入信することだけが親孝行」「入信することだけが、姑さんの安心になる」と、それに逆らうことがまるで非・人道的であるかのようなシチュエーションを創出させています。

その勧誘の局面において「入信しても勧誘の必要はない」という言葉が絶対的な矛盾となっていることに、気づかないのでしょう。

「お前は、姑の為に真如苑に入信しなければダメだ。でもその宗教は、入信しても勧誘の必要はないから安心しろ」
と言われて、それが釈然としないのは当たり前なのです。


“死”という絶対的な局面が、旦那さんの言葉に力を与えているように思えます。でもそれは、同時に身勝手な心がむき出しになっている、無謀な力の使い方なのです。

真如苑の中では“正義”と位置づけられる、けれども一般的には、“エゴ”と言われるものなのです。

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