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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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緋色さんのブログに関しての、続編

“去るものは追わず”これはまさに、真如苑信者の特徴の一つではないでしょうか。

散々、教えの素晴らしさや唯一無二でこれでしか救われないなどと主張しておきながら、勧誘者が興味を示さなかったり、創価学会信者だったりした場合。または、自分の所属が教えから離れていった場合。その時の導き親、経親の行動を良心的に解釈すると“去るものは追わず”となるのです。

信者は、如苑を辞めた人たちや創価学会信者をはじめとする他宗教の信者を「救われない人」と位置づけています。ところが、真如苑のスローガンの中には「あまねく一切を救う」という言葉が存在しているのです。これではまさに“矛盾”そのままです。

「救われない人」と信者が括るグループを、真如苑は救い出せる力がありません。反・真如苑一派にはその一派の主張が明確にあります。その主張を覆す力は、真如苑にはないのです。その主張を覆すことができるのは、“救われない人のグループ”に属する者が、自ら困窮し真如苑に救いを求めようとする時だけなのです。

残念ながら、反・真如苑の一派が真如苑に対して救いを求めることは一切ありません。それは、真如苑が単なる詐欺的行為であり、集金目的のネズミ講組織であることを心底理解しているからです。その、心の底から理解しているという部分を取り上げて「色眼鏡で真如苑を見ている」と主張する信者のことを先の記事に記載しました。けれどもこちらは、真如苑に対して『赤いサングラスを着けているために、白を赤と誤認している』という訳ではないのです。

真如苑信者の能動的な力で「反苑の谷居」を真如苑が主張する“救い”で救い出すことが出来ると信者は思っているでしょうか?その答えは“ノー”です。

「死ぬまで反苑活動を継続させたらいいじゃないか」という信者の主張の中に、私は真如苑の救いの力を見出すことはできません。「アナタがいくら反・真如苑を主張しても、真実は揺るがないのです。あなたにも、真如苑の救いの力が流れているのですよ」という摂受の気持ちが、その言葉の中には皆無だからです。本当に、あまねく一切を救う教えなのだとしたら、反・真如苑を標榜しようともその“救いの力”は揺るがない筈なのです。

真如苑の救いの力ほど、脆弱なものはありません。なぜなら、それは月々に換算してたったの200円を納めなかっただけで途切れてしまいます。それは心の中で教えへの疑念を抱いただけで遠ざかってしまいます。それは3ヶ月参座しなかっただけで一からやり直せといわれてしまいます。それは自分の都合を優先して日々を暮らす事を良しとしないのです。そしてそれらに対して報復を講じるのです。
それは“苑費の切れ目が霊線・み力の切れ目”であり、それは“意業”であり、それは“接心修行に月1回以上参座すること”であり、それは“世間法に流される”ことなのです。そしてそれらが不履行となる場合には“救いの力”を押しのけて“因縁の恐ろしさ”が出てくるのです。その後、改めてそれらを再履行すれば、やっと“救いの力”がもたらされるようになります。

それを踏まえてもなお「あまねく一切を救う」などと、一体どの面さげて言えるのでしょうか?救いの力を発動させるための条件が余りにも多すぎて、そして極めて限定的であることに、信者は気づかないのでしょうか?
この条件と限定とをこちらの“色眼鏡”と主張するのならば、残念ですがその主張は通りません。本当に暖かい気候ならば、裸でいようがコートを着込んでいようが、その暖かさは普遍なのです。同様に本当に白いものならば、赤いサングラスをしていようが、それを見ないでいようが、それが白であることは普遍なのです。
ですから信者が“白”と喩えるその主張が本当に普遍的な白であるのならば、反・真如苑一派が何を言おうとも揺るぎなく「あまねく一切を救う」事ができる筈なのです。信者が本当にその救いの力、すなわち真如苑を信頼しているのならば、「死ぬまで反苑やってろよ。でもそれじゃアンタは救われないからさ。オレ知らねーからなっ」というような暴言を吐くことはないのです。真如苑に対して心の底から信頼を寄せていれば、「それでもあなたを救う力が真如苑にはありますから、どうかご安心ください」と優しくなれる筈なのです。
けれども、残念ながら信者はそう言えないのです。優しくできないのです。それは、信者が自分自身でも「救いの力」が享受できるかどうかが危ういからです。信者自身が真摯に教えに取り組んでいないと、直ぐに振り落とされてしまうからです。

信者は振り落とされて、堕ちた人にはなりたくないのでしょう。真如苑を辞めた人を、真如苑に属さない人を“堕ちた人”としてグループ化しておけば、「そっちには行かない」という対比によるモチベーションが沸くことでしょうね。
<谷居>

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