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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

匿名返信 Cさんへ

谷居です。

ブログに非公開でコメントをいただきました。

匿名にて返信させていただきます。


Cさん

反・真如苑ネットワークが導きだした一つの方向性は「行かない」「興味を示さない」「否定しない」です。

「行かない」とは、施設に出向かないこと、家庭集会という地域ネットワークに出かけないことです。
周囲を信者に囲まれると、正常な判断力を喪失します。家庭集会では十数名が一つの価値観で動いていますし、施設においては数百人・数千人が一つの価値観で動くのです。その様は異様にも思えますが、同時に「これだけの人たちが良いというのだから、もしかしたらここ(苑)は、悪い所ではないかも」と思えてしまうのです。

「興味を示さない」とは、相手に真如苑の話題をさせないことになるからです。教徒は真如苑こそが唯一無二でそこでしか幸せになれないと確信していますから、興味を示せば怒涛のように真如苑の良さをまくし立て、さらには「一度お寺にいきましょう」ということになるからです。

「否定しない」とは、話をややこしくしないため。そして何より教徒に逆切れさせないためです。これは特に、身内や大切な人を苑から引きはがそうとする時に重要なやりかたで、否定すればするほど、教徒は苑にのめり込んでいくようにマインドコントロールされているからです。


苑信者にとっての身内の病気とは「因縁」という事象であり、ご先祖様の苦しみそのものだと捉えるのものです。
真如苑には『接心修行』という霊媒修行があります。それは真如霊界という『あの世』にいる教主の長男・次男が霊界で相談をし、霊能者にそれを伝え、その『霊言』を霊能者が教徒に伝えることで教徒が心を磨くとい位置づけられた修行です。
その修行において、時折ご先祖様の苦しみが示されるのです。「かつて肺の病気で苦しんでいるご先祖様が示されます」などという霊言で、供養するように推奨されます。

この霊言においては最初に直接「肺の病気」とは言わないことが一つのポイントになっています。「胸の苦しみが示されます」と言うのです。
胸の苦しみと聞くと、その解釈はいくつかに分かれます。「肺の病気」「心臓の病気」「心の病気」「食道の病気」「胃の不調による胸のつかえ」「気がかりな出来事に『胸を痛める』きもち」などの多岐に渡るのです。
「胸の苦しみ」を特定する作業は、教徒に委ねられます。抽象的な霊言を、教徒は経親と協議することで、具体化させて行きます。

「胸の苦しみ」「頭が重い」「足もとが揺らいでいる」など、抽象的な霊言はいくつも示され、その都度何かしらの思い当たる節を教徒は思い浮かべます。そんなことを何度も繰り返していくうちに「霊言はすごい。真如霊界は何でもお見通しだ」と確信するようになります。それはコールドリーディングと言われている手法そのものなのです。

教徒にとっての身内の病気とは、そういった霊言で示されるご先祖様の苦しみであり、ご先祖様は喋ることができないから「事象」という現世の子孫に表出する苦しみによって「私の苦しみを判ってほしい」と嘆願している状態という解釈になるのです。
そのご先祖様をご供養できるのは真如苑だけなのです。なぜなら、ご先祖様の苦しみを掘り下げて示してくれるのは真如苑だけだからです。

病気や不仲など、トラブルは「事象」で括られます。だからこそ、そういった情報を教徒が聞きつけたら「一度お寺にいきませんか?」と相手を引き込むことになるのです。

相手に対して自分の不幸や身内の病気などを語らない、弱味を見せないことが必要になります。

「行かない」「興味を示さない」「否定しない」それと「弱みを見せない」という距離感であれば、教徒の方とは普通にお付き合いを継続することはできるでしょう。

それでもその方は「あなたを救い出してあげたいのにな。。。」と、常日頃思っているのです。『上から目線』のその発想は『選民意識』から生まれるので仕方ないことです。

私も、信者時代は同じように考えていました。「相手を救い出してあげたい」という願いは、思いやりではなく傲慢だと気付かないのです。

<谷居>

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