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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

谷居のプロフィール 1/4

私の真如苑との出会いは、今から25年以上前のことです。アルバイト先の社長が、真如苑の信者でした。
その社長は、重い病を患っており、何度も死の境界線を踏みながらも生きている人です。今も健在です。その社長にとっての真如苑は、“命”に直結した、無くてはならないものなのでしょう。今もなお、真如苑の信仰心にブレはないようです。

私は利害関係と人間関係が創価学会のネットワークで構成された会社に就職し、そこで創価学会のいい加減さ、攻撃性、排他性などを、嫌というほど味わいました。その時に「創価学会はダメな宗教。間違った宗教」という確固たる認識が、私の中に芽生えました。また私は学生時代に「中学校の同窓会幹事の集まりがあるから」と元のクラスメイトに誘われ、訪ねてみると霊友会の勧誘だったという経験を持っています。人を騙してまで勧誘するというスタイルに強烈な嫌悪感を抱き、霊友会もまた私の中では「ダメな宗教。間違った宗教」という位置づけになっていました。

私は、元々は無神論者でした。ご先祖様に対する畏敬の念は、「はるか昔のご先祖が、あの時に豆腐ではなくて魚を食べていたとしたら、たんぱく質の体内構成が変わってしまうのだから、私が今のこの形で、この世に生を受けることはなかったであろう」という意味における感謝でした。精子と卵子の結びつきが幾度も繰り返され、偶然とも必然とも言い切れない奇蹟のタイミングの果てしない繰り返しの上に、今の自分がいるという自覚は持っていました。

そんな無神論者の私でも、創価学会の熱にやられてしまったのだと思います。その会社がやっている創価学会よりも、真如苑の方が余程まともなものに思え、「宗教的な正しい知識を身につけたい」という動機で、自ら進んで入信しました。

真如苑の読経には「開経偈(かいきょうげ)」というものがあります。

無常甚深微妙の法は(むじょうじんじんみみょうのほうは)
百千万劫にも遭い遇うこと難し(ひゃくせんまんごうにもあいおうことかたし)
我れ今 見聞し受持することを得たり(われいま けんもんしじゅじすることをえたり)
願わくは如来の真実の義を解せん(ねがわくはにょらいのしんじつのぎをげせん)

私の、真如苑入信前の“宗教”に関する唯一の知識はPHPから出版されている「こころの座禅堂:松野宗純 著」に拠ります。上記の開経偈はその書物に記されていた原文そのままです。それは、真如苑のものとはディティールが異なります。どちらが正しいのかは、今の私には判りません。

このお経が含まれており、般若心経もあり、自分の全く知らないお経もあり、で、真如苑は宗教的にきちんとしているのだな、という認識が私の中に生まれました。

最初の帰苑の時。今思い起こすと、「直感」があったのですが、そういった“人の直感を曇らせる要因”が複合的に存在しており、私の直感は自分自身であっさりと封印させてしまいました。

最初に出てきた真如継主(しんにょけいしゅ)を一目見て、『何でこんな派手な格好をしなきゃいけないのかな』との思い。
次に、読経が始まってから『“南無真如一如大般涅槃経”というご賛題は、“南無妙法連華経”という創価学会のお題目と何がどう違うのだろうか?』という疑問。
読経の中での、南無の後に続く、教主一家への祈り。それに対する、信者の異常な執着的なありがたさの表現は、一体何なのか?という疑問。
教主のビデオ説法での、慇懃無礼な物言いは何なのか?という疑問。

それらは自分の中で、それなりの理由をつけて落ち着き、疑問符はそこで封印されました。
そして数度目の帰苑の後に受けた、最初の接心修行。「転ばぬ先の杖ですよ」と、教えを示されました。

私の自覚は、真如苑には“受け手”と“送り手”がいるということでした。接心修行においては、同じ信者でありながらも修行を重ねた“霊能者”がいて、それが“送り手”。一般信者は接心修行を受ける“受け手”。私にとっての真如苑は、自分が受け手であるという明確な自覚と、その受け手の立場で宗教を学んでいこうという意志でした。

入信後10年近くが経ち、ある日大きな事故に遭遇しました。九死に一生を得たという言葉通りの状況です。それまで、受け手として大して熱心でもなく真如苑に属していたにも関わらず、その事故の瞬間、死をも考えた時に、真如苑教主の肖像画が遠くの方から目の前に、ゆっくりと回転しながら迫ってきました。
何故、教主の顔だったのか。身近で支えてくれる家内ではなく、私を生み育ててくれた両親ではなく。その疑念をずっと抱えながら、さらに数年を過ごしていました。その間、「本当は死んでいた筈の命。生かされているあなたには、生かされている意味と使命がある。世のため人のため、世のお遣い人になりなさい」という暗示が、真如苑から私にかけられていました。

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教えのリアリティ

ある時教え関係者が浮かんできて自分のリアリティとなることは、自らがそう思ってしまうと信じる力となります。それは教えに知らず知らずのうちに植え付けられてきたものかも知れません。

しかし、所々見られる法要などでのおかしいと思えること。
それらが一瞬で見抜かれたり、一生見抜かれなかったりするのは、意図的に人を集団の思い通りに行動させようとしているからです。それをマインドコントロールと言います。

所々に見られるマインドコントロールの粗、即ち教えのブレの発見が「これくらいで済んで良かった。」と思えるかの紙一重の分岐点となります。

ただ今のプルーフ(証明)を胸に刻ませていただき、教えに実害を感じる人のヒントとなれるよう、邁進させていただきたいと存じます。

一闡提 | URL | 2011-12-28(Wed)06:19 [編集]


この続きがどこに書いてあるか分かりません。

市民 | URL | 2018-12-06(Thu)14:49 [編集]