反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。二人の、アングル違いな二つの切り口で“真如苑”の闇を露わに語ります。

ツッコミ所満載の“苑歌”

反・真如苑的用語解説にて、“苑歌:そのうた”をまとめてもらいました。(谷居が編纂したわけではないので、このような表現です)

苑歌は法要の最後に信者が全員で唱和するのですが、私は信者時代にその行為を「幼稚だ」と感じ、積極的には行わなかったのですが、結構信者の皆さんは真面目に、MCの音頭に従って唱和していたことが思い出されます。

ちなみに、用語解説を見て初めて知ったのですが「常楽」「楽我」「我浄」の3つに分類されていて、それぞれに31づつ歌があるのだそうです。一体に、「常楽」「楽我」「我浄」の三つとは何なのか、私には理解できないことですので、またどなたかに、その三つの用語解説もお願いしたいところです。

さてそれで、この“苑歌”というものを見てみると、実に興味深いものがあります。何故なら、『真如苑が信者をいかにして拘束しているのか』や『信者をどうやって脅迫しているのか』など、その手口の集大成となっているからです。

全部で93の歌があるわけですから、その“手口”としての裏側を93個とも紐解くことができるのですが、それをこのブログで全てやってしまうと、実にダルな展開になってしまうかもしれません。それらは、折に触れてこのブログで紐解いて行こうと思っています。ですから今回は、先ずはその手始めとしてパッと目に付くものをご紹介しようと思います。

我楽の苑歌・その18
物事は思うが如くならねども 行い重ねて成ると知るべし
【真如苑の解説】
ままならないのが、人の世である。何事も誠実をつくして成しとげてゆく、そこに目的成就の栄冠はある

私が気になるのは、“目的成就”を栄冠としていることです。それは、羨望を我が身に取り入れること。“目的”を崇高なものと位置づけない限りは、それが“栄冠”となることはないからです。

真如苑の活動(信仰)を深めていくと、『人事を尽くして天命を待つ』という言葉が『人事を尽くした後に祈りをもって天命を待つ』という言葉にすり替えられていきます。その気持ちはその後、「成就しないのは祈りが足りないからだ」という欺瞞を生み出すのです。

「上手くいったのは教えのお陰」という感謝の気持ちは、このような欺瞞的考えからも生じるのです。上記の苑歌が唱えている“行い重ねて成る”という言葉。それは、『人事を尽くす』という意味であるとしながら、その言葉の裏側に『正しい祈りをもって天命を待てば成る』という“期待感”を含ませています。そして、信者はその期待に身を委ねるのです。


「なぜ、思う通りにいかないのだろうか」という悩みに、明確で明瞭な答えはありません。人生の、こういった場面における悩みとは、数式で計測できるようなそういう類の疑問や解決ではないのです。
これと同様に「どうして上手く行ったのだろうか」という疑問にも、答えなどないのです。やるべきことをやる。怠けない。身奇麗にしている。など、そういった“何か事を成そう”と思った時に取る行動や言動は、誰もが当たり前のようにすることです。その上で「上手く行った」とか「成就しなかった」というのは単なる結果論であって、数式で計測するような答えではありません。

真如苑は、このように上手くいかない時のために、信者に『言い訳』を用意しているに過ぎません。信者は「祈りが足りなかった」と言い訳できれば楽になれるのです。理由などない理不尽に対して、それらしい理由がつけば、それが“立ち行かない心の落とし所”として納得することができるのです。

このような気持ちに陥ってしまうポイントとして、一つ重要なことがあります。
それは、真如苑は「人の不幸、逆境」を起点に信者を獲得しているということです。ほとんどの信者は、ダメな事があった時から真如苑の活動(信仰)が始まります。既に信者であった人も、それまで茫漠とした名前だけ信者だったのに、「自らの身に降りかかった災難」や、「ダメな事」を起点として「教えに邁進しよう」と決断するのです。

そして真如苑は、その「ダメな事」に対して“言い訳”を用意してあげている---という訳です。
<谷居>

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苑歌の種類

苑歌はカレンダーになっている31×3首の他に苑歌撰集という智流学院級の信者に伝えられるものもあるようです。
寒修行で読まれる苑歌も違います。
レベルの高い信者向けのものはマインドコントロールが進んでいるのを見越して、より確信犯的かも知れません。
カルトは信者のレベルに応じて教義を変えます。

一闡提 | URL | 2012-01-15(Sun)07:53 [編集]