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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

調和について考えました

「真如苑は摂受の教え」という考えが、信者時代の私の根幹にありました。それは、「創価学会とは違ってすばらしい教えである」という確信と安堵を伴ったものでした。

創価学会については私はその活動(信仰)を直接に行ってはいないので、詳細を解説することはできません。ただ、以前私の周囲に居た創価信者の言動を見ていて厳然と理解できることは「創価とは修羅の気持ちを醸成する活動である」という確信です。
創価信者は“戦い”という言葉が大好きで、好戦的ですらあります。創価はその活動(信仰)を解説する場合には、他の宗教活動を徹底的に否定し、論破します。自らの正しさを誇示するのです。そして、勧誘行為は“折伏”と呼ばれています。理論で武装し、その論拠に基づいて能動的に活動するのが創価の信仰だと分析することができます。

一方、真如苑の活動はその対極にあります。それは恐らく、創始者が創価を含めた既存新興宗教を分析し、“それよりも優れたもの”として信者にプレゼンテーションするために、結果として創価の対極になったのだと思われるのです。

真如苑は“摂受”により、対象物を論破するのではなく(実際はそれとはかけ離れた実態がありますが、それは置いておくとして)包容力で示すことをテーマとしています。他の宗教活動を否定する場合には、それを論破するのではなく、対象者を「真如苑に歩ませる」という“体解(たいげ)”をもって誇示します。密教という提示により、理論武装をするのではなく“感覚的なもの・やらなければ理解できないもの”を身に纏(まと)うのです。つまり理論的な論拠はそこにはなく、あくまでも“感覚”として体感するものとなっているのです。

好戦的な創価学会を『バリバリのタカ派』と位置づけるならば、真如苑のそれは『タカ派の鳩』といえるのではないでしょうか。『ハト派の振舞いをしているタカ派』と言い換えることも可能なものです。

表面上、便宜上、創価学会を“タカ派”とし、真如苑を“ハト派”とするならば、それはどちらもアンバランスな状況であると言えます。

戦う一方では、相手が嫌悪感を抱くことは間違いありません。「自分が自分が!」と、相手を押しのけてでも進む姿というのは、決して褒められるものではないのです。ですから時として相手を許容するだけの包容力や優しさを持つことは、人として必要なことであると私は確信しています。
とはいえそれが「他がために」と相手ばかりを立てていても、結局の所自分が何事も成すことはできないのです。他人を優先してばかりでは、自分の事が叶う訳はありません。時には「自分が!」と進むことがなくては、物事が一歩も進まないというのも、これまた自明のことだと思います。

それらのバランスを、最善のポイント(重心)に置くことが「調和」だと私は思います。

“信仰”に対して非信者が理解を示してくれない時。非信者を論破して自らの信仰の正しさを誇示することには、「調和」の欠片もないことです。そして逆の意味で同じように、非信者の無理解を「信仰障害霊」や「自らの信心の覚悟が足りない(相手は鏡という概念)」または「祈りを運べば何時かは解ってくれる」などといって何の説明もせずひたすら祈ることも、これまた「調和」の欠片もないことなのです。創価学会とは逆の意味で、真如苑信者は同じことをやっているのです。

創価学会もそうですが、真如苑の活動(信仰)も、決して調和が取れているものではないのです。

「他の宗教より優れている」という考えは、調和が取れていません。「他の宗教も素晴らしいものがある。たとえば▲▲教は、●●の点においてとても優れている。でも真如苑の宗教は×××という特性があり、その特性は真如苑にしかないものである」というのであれば、そこには見事な調和が見られます。
「真如苑だけが唯一無二」という考えは、「真如苑が他の宗教よりも優れている」という『自分が一番』を誇示する下品な考え方です。真如苑は表面上はキリスト教と縁があるとか、何某寺とのネットワークがあるなどと、他宗教との綿密な連携を発表しますが、それでも最後には「真如苑だけが唯一無二」と、言い切るのです。その“唯一無二”という考えは、絶対的な排他性を伴っているのです。

“唯一無二”だけに焦点を絞れば、それは人は誰しも唯一無二なのです。ですから言葉としての「真如苑は唯一無二」という状態は、間違ったことではありません。創価学会は真如苑ではないのです。霊友会も、幸福の科学も、それらは真如苑とは違うのですから、それらも等しく唯一無二です。「創価学会は唯一無二」であり「霊友会は唯一無二」でもあるのです。決して、「真如苑“だけ”が唯一無二」ではないのです。
それらの唯一無二を認めた上で、真如苑も唯一無二であるというのでしたら、それは調和が取れた秀逸な考え方ということになりますが、残念ながら真如苑はそうではないと言っているのです。

「あっちの水は苦いですよ。こっちの水だけに本当の救いがありますよ」という言葉は、信用に値する言葉ではないのです。「あっちの水にもあっちの水の良さがあり、こっちの水にはあっちにない特性がある。どちらがあなたの好みかは、あなた自身が決めることです。こちらは、こっちの水を用意してお待ちしております」というのであれば、まぁ信用してもいいでしょう。
<谷居>

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調和のとれない教え

真如苑と外部の人との調和が成り立っているとすれば、それは基本的に「なにを行っているか分からない」という不安や恐れです。
しかし、信者は自分だけが他が為に祈っているだけでは救われないとマインドコントロールされます。そこで、人の不幸を見つけ、真如苑につなぐことでその人を救おうとします。
真如苑が新興宗教であると知られてしまうと勧誘は成功しませんから、信者は極力真如苑の情報を明かすことなく、とにかくありがたい教えであると伝えようとします。ここまででも調和は取れています。
唯一無二がユニークであるという意味ではなく、この教えが最高であるという意味であると、余計に調和を保つことが難しくなります。
信者のレベルに応じて言葉を変え、信者が勧誘することでレベルが上がるネズミ講型の活動であることに気づかせないことがばれてしまうと最高の教えであるという意味での唯一無二が成り立たなくなるからです。
そして、様々な機会で外部の人がその活動の真髄に気づいてしまうと調和がたちまち崩れてしまいます。
ある時は「堕ちた人」と気づいてしまった人と信者との接点を絶つこと、ある時は疑いだした信者を「悪因縁に倒される」と脅すこと、被扶養者ならば体罰を与えてまでも集会や奉仕に行かせること。明るみに出ることが少なく、調和が崩れている実体が周囲に相談できる術が無いにもかかわらず、ネットに寄せられています。
しかし篤信者は最高の教えの意味である唯一無二の教えを自分が行ってきたことはコミットメントの一貫性であり、今まで行ってきた教えにしがみつかなければ調和が保てないのです。
創価が論破、折伏の教えであると言われており、真如苑が摂受の教えと言われています。
一昔前の掲示板荒らしに見られた強い言動は論破、折伏を感じましたが、現在は「はぐらかし」を感じます。
真如苑で「ただ祈れ」と教えられながら疑問を寄せられると指導者が答えられないのは「摂受」が「はぐらかし」だからです。
創価が攻撃的な修羅の教えならば、真如苑はただ祈り、力を欲しい欲しいと願う畜生の教えです。

一闡提 | URL | 2012-04-21(Sat)08:17 [編集]