反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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N君の教えへの警戒心の持続

N君は今も警戒している。
それは、N君が信者時代に経験した、教えに一生続けるかのような課題が出され、実際にそう考える信者がいたからである。今も、N君の周りの信者は、まだ教えの欺瞞に気づき切っていないからである。
ネットで検索してみても、似たような手口で勧誘される人がいるようで、しかし、これだけネットに手口に対する対策が載っていれば、閲覧しただけで静かな対策ができる人が増えているのではないかとも思える。教団施設に行けば、無断でも入信させられてしまうという知識が根付けば、未信徒でも信者同伴で参座できる制度になったのではないか。もちろん、本人が行く意思が無くとも、無断入信ができる。教団施設に連れていくのは、豪華な施設を見せて、大の大人が揃って額づいている姿が集団圧力となって働くためである。
N君は、最近真如苑だけが人数的に延びているとネットで評論されていたので、文部科学省の宗教統計調査結果を見てみた。時系列で並べてみると、教主が亡くなる昭和から平成になる頃に260万人近く届けていた信者数を67万人台で届け出ている。それは驚異と取られないように、信徒カードを通している、実際に歩んでいる信者数とN君は聞いている。思い起こすのは、N君がまだ信者だった頃、複数のカードをリーダーに通していた人だ。また、昭和62年には「水ぶくれ真如苑~急成長の秘密と欺瞞と構図~」が出版されている。社会の注目や変化を見ながら教団の見られ方を変えようとしているのだろう。
N君に取って、確かに教えに理由を求め、示してくれることを信じていた頃は、ある意味楽だった。それが信じられなくなったときの信者の態度が不誠実で人の自由を奪うかのような態度であったために、教えの被害として探った経過がある。
この世はあらゆるものが関係して形作っている縁起によって成り立つ実体のない世界であり、それが「空観」だとしたら、今の自分に降りかかっていることは霊による働きかけであるとするこの教えはどのような思想なのか。「空観」だけでは生活が成り立たないので、それを踏まえつつも自分なりの役割に意味を持たせ、果たそうとするのを「仮観」だとすれば、仏(教主一家)が喜ぶために身を滅して衆生を救うために勧誘することが最高の取り組みであるとするのはどういう思想なのか。信者が「辞めた人は教え無しに幸福になることはあり得ない。」と言わんばかりに団らんに脈絡のない介入をしてくるのは。
この世は仮の世界だが、教団内である程度の地位になれば、「次は人間の苦しい世界に生まれない」という仮観を植え付けられているならば、徳という価値を教団内で積み上げて、教団内で貢献すれば救われる。そうしなければ救われない、という狭い世界に陥らされているのではないか。社会の縮図が教団内でも見られ、ただ価値観を変えられて、特定の集団に貢献させられ、それを受け入れないと信者から嫌がらせされる構造に被害を受けているのではないか。その対策を広められるにはどうしたら良いのか。N君は考える。<一闡提>

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