反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

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信者のジレンマ

N君はかつて信者として教えに惹かれ、この教えが世界を救うかのような感覚にさせられた。しかし、同時にN君は心が疲れていた。そんな人に入り込みやすい教えだとも思う。他の新興宗教もそうだと思うが。
信者は世間一般にはない救いを感じ、その取り組みの中で上から流れてくる教えのお力を信じ、そのお力が流れてこないことを恐れるようになる。
それは、いつまでも向上せずに教えのお力に浴すことである。向上するには人を救う、つまり勧誘して人をこの教えにつないで救わなければならない。そうしなければ霊、因縁の恐怖から逃れることはできない。今思えば、教えに植え付けられた恐怖を人にも感じさせなければならないから、不幸の手紙と同じであるとN君は思う。
信者は教えを疑ったり否定したりすると教えのお力が流れてこないことを知っている。そう知らされている。だから、教えを信じなかったり否定したりする人は教えの力が流れてこない。しかし、その人が不幸であるとは限らない。信者は、「良ければ教えのお陰、悪ければ取り組みが足りないから。」と思わなければ教えを否定することになる。教えを信じていない人の、教えを信じないことによる危険に気づいていない部分に注目しなければ、信者が教えをやっているメリットを実感できない。それどころか、思考停止させられている自分が、教えを信じない自由な人から論理的に攻められると、自分まで教えに対して疑いを持ってしまうかも知れない。だから、相手に対して「理論理屈」と言って思考停止を促すこともする。
要するに信者は、否定すればお力が流れてこないような不安定な教えに翻弄されながら、自分の心に嘘をつき、教えに依存しながら教えに人を導くことで不幸の手紙を送る様な行為をしながら人の信頼を崩す行為をせざるを得ない立場であるとN君は考える。
それは信者が決断していることである。それをN君は信者が教団繁栄のために霊、因縁によって追いつめられて世間と教団との防波堤となって精神的に消耗させられているとしか見えない。それが信者のジレンマではないか。《一闡提》

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コメント


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まさに”すがっている”状態なんだと思います。
私にもどん底で何をやってもうまくいかない。
失敗続きで心が弱っていた時期があります。
その時には友人、先輩の助けがあり乗り越えられました。
あの時、何かの宗教の勧誘を受けてたら私もどうだったかは正直わかりません。
親を見てたので踏みとどまっていたかもしれませんが、藁にもすがる、そういう状態でした。
だからこそ、「悩んでいる人をみたら勧誘のチャンス!」あの青年信者の心には許せない思いがあります。

緋色 | URL | 2017-02-28(Tue)13:43 [編集]


この手の宗教は勇気くじきを勧めてきます。「良かったら教えのおかげ」は勇気くじきです。自分の努力がないがしろにされますから。
霊、因縁の影響を信じさせて、教団施設の外で(日常で)恐ろしい霊、因縁から守られていることを意識するように、教えは恐怖心を植え付けようとします。

一闡提 | URL | 2017-02-28(Tue)21:01 [編集]


毒親がやるマウンティングもそうですが、はっきりと理由を提示しないで、「原因がなぜわからないのか?」「やっぱり(わからないのが)駄目だねェ。」という形で否定に入ります。
苑でないとダメだ。
悪い因縁がつく、、、修行が足りない。
よく判らないものに理由を規定し、検証もできない理由を続け、依存させる構造は似ているように思います。

管理人緋色 | URL | 2017-03-02(Thu)10:05 [編集]


教えの目的とする信者の心理は、自分の起こることに必ず霊、因縁による働きかけの意味があり、それは霊言でしか分らない、だから教えに依存するしかない、と思わせることです。
一方、霊言は曖昧で、それらしいことを言い、信者が思い浮かんだことに「ハイ、そうですよ。」と促して信者に決断させます。その通りに行動した信者は信者自身が決断したことなので、教団の責任にはなりません。
信者は新興宗教を信じているという劣等感を感じていながら、霊言という人にはない情報手段を得ていると思いこみ、自分が情報で勝っているかのように、取ってつけたことを言うことでそれらしく思わせようとします。その違和感を感じたら、ネットで質問すべきです。

一闡提 | URL | 2017-03-02(Thu)12:39 [編集]


15年間歩んでいました。

初めまして。私は今年まで15年歩んでいました。大学生の頃からです。

教師補まで行きました。多分、そこそこガチ勢です。ただ疲れました。二度と帰苑することはないでしょう。

最初は智流学院に入った頃は仏教の勉強ということで、とても楽しみにしていました。また、燃えていました。が、幹部候補生としての内容、色々なことにマニュアルやルールなどがあると学んだだけです。
物足りないので、もう少し勉強しようと仏教の色々な本を読んだことが離れるきっかけでした。また、友人を勧誘しようとあるイベントに行った時に「嫌悪する新興宗教そのものだな」と感じてしまい急速に冷めました。
「人に尽くしなさい」とも言われましたが結局その人が入信しないとわかると「ほっときなさい次よ次」とも言われました。
結局、勧誘実績にならないことは関心がないのです。

公式サイトや会誌には仏教っぽいことを書いています。しかし、経親は「○○因縁がある。因縁が凄い。霊的に汚れている」等と言います。書いてあること、と話されていることが全然違うのです。自覚しているのか無自覚かはわかりませんが、二枚舌だと私は思います。「昔の因縁の姿に戻りたいの?」と度々言われました。
因縁という言葉は勿論仏教にあります。しかし、頭因縁(メンタルを病む)ガンの因縁など信仰障害は仏教にはありません。そうしたことを集会で度々言われました。
このように「話されていること」を全く会誌などに乗せないというのは不可解です。

青年の集会では「仏教を超えた世界宗教を目指して変化していきます。とは言え新興宗教ではないです」との説明がありました。不可解です。青年の中では仏教や宗教について話されることはありません。みんな何も知らないのです。ご伝授も頂きましたが、お経や真言の説明もなくVTRが流れるだけでした。

冷静になっているつもりですが、「因縁のままに」という言葉が頭を過ることが度々あります。やはりマインドコントロールなのでしょうか。

突然の書き込み失礼しました。

伽藍 | URL | 2017-10-09(Mon)05:41 [編集]


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