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反苑・往復書簡的寄稿ブログ

一闡提と谷居の二人による、「反苑の会」から派生した寄稿ブログです。(注:このブログは真如苑活動に対する過去の経験と、今後の自己防衛手段を考慮するためのものです。従って真如苑の活動を毀損・妨害する目的ではなく、また真如苑やその信者を追い込むこと、誹謗中傷することを目的とするものでもありません)

元信者として

人は、何を求めて生きるのでしょうか。それは人それぞれに違う答えがあって、違う生き方をして。
それでも独りで生きる人も、独りだけでは生きてはいけない。さりとて二人ならばどうかと言えば、それもまた二人だけの世界では生きてはいけない。徒党を組んでも、それでもやがて行き詰まる。

『他がために』と生きる真如苑信徒には、互助という理想が見えているのでしょうか。それとも他者を引率するリーダーとしての、自らの資質を見据えているのでしょうか。

いつしか気づかないままに支配的な考え方が備わってしまっていても、気づかないままに侵食されている心への自覚は、全く以てないのでしょう。

真如苑信徒は『世の円満な指導者』という指針が、本来あるまじき姿だとは気づかないのです。私もそうでした。
円満であろうが徳が備わっていようが『指導者』なのですから、人の上に立つという事です。それには他人様を導いて行く力と引き換えにして、責任を持たなければいけないのです。

果たしてそうならば、何の力を持って人を導くのでしょうか。
真如苑で得た霊能力だとしたら、苑の外ではその力は全く以て無効なのです。ですからその『力』はゼロなのです。
真如み教えだとしたらまだ修行途上の信者では、人としての優劣が有るわけではないですから指導者たるには役不足というものです。(修行を終えたとしても、人としての優劣など本来はないのでしょうけれど)
双親サマ、両童子サマへと人を繋げる使命だとしたら、それは力ではなく『お役目』です。分かり易く言えば『ただのパシリ君』と変わらない『使われ者』です。

馬鹿に権力を持たせる程危険な事はありません。経親・導き親のせいで真如苑活動に冷めてしまう人がいるならば、その観点からすれば当然至極なのでしょう。

勘違いした『力』で巻き込んだ(導いた)人への責任とは、一体にして何でしょうか。
子信者の霊位を向上させる責任だとしたらまた誰か、果てはあなたの見ず知らずの他人様を巻き込まなくてはいけないのです。そうして巻き込んでしまった孫信者への責任は、経親にでもなれば取れるというのでしょうか。しかもそれは、必ずあなたが経親にまで登りつめるのならばという前提です。
子信者の幸せを願う事が責任だとしたら、その幸せへの尻拭い(接心修行や護摩・施餓鬼)はあなたではなく真如苑が行っているのですから『苑に連れてきただけでノーケア』という無責任極まりない姿となるのです。


私は、20年近くを勘違いしたまま過ごしてきました。力があると思い、責任を果たせると思い、人を導いた私は馬鹿が権力を持った哀れな姿そのものだったのです。

互助的なことを考える力を失くし、世の中を変えることよりも、自分の心癖や因縁を変える(断ち切る)事を望んでいたように思います。
世の中の全体を見るのではなく、目の前の『不幸な人』を見ていたように思います。
いつしか狭い枠の中だけに幸せを見い出し、『縦の線』と呼ばれる情報操作の渦中で、試行錯誤の人生を歩んでいたように思います。

自分の為に世の中が在るという傲慢さは言葉を変え、『感謝』というご都合主義な解釈へとその姿を偽っていました。
今、生かされている事への感謝。気づかせていただける事への感謝。それらの『感謝』は、自己を物事の中心に据えて初めて成立する心持ちなのです。
今の自分が在る事を『生かされている』と解釈する事は、天下御免の許諾を真如霊界から得るという解釈に直結します。『生きていてもいいですよ』という走り書きがされた免罪符を持ち歩く心境です。
『生かされている』『気づかせていただける』と思う事で、自分だけが主役のステージに上がる事ができるのです。生かされているのは『自分』。気づかせていただけたのも『自分』なのです。その結果として感謝の気持ちを有するのもまた『自分』なのです。そこには互助精神など微塵も存在しないのです。『オレが!オレが!』という我の尊厳だけしかありません。

『感謝ですよ』と、そんな事を真如霊界から諭される事に、いつしか違和感を覚える事ができるようになるでしょうか?一般的な常識とバランス感覚を持っていれば、その言葉に違和感を覚えるものです。

青春を、真如苑の価値観で過ごした私が今振り返るのは、そんな心象風景なのです。
<谷居>

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知性の欠片もない信者の書き込み

あまり、積極的に書きたい記事ではないのですが、余りにひどい書き込みに、黙っていられないものでしたためました。

4月5日に信者からコメントが寄せられました。

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名前:やや子
タイトル:助けられました
ホスト:KD125055067161.ppp-bb.dion.ne.jp
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私はあまり熱心な信者では有りませんが主人の癌が先生もビックリで消えてしまいました。ペットの犬も病気にもならず
死ぬときも苦しみもなく不思議でしたよ何よりも不思議なのは天ぷらの火を消し忘れたのに換気扇がドロドロに解けていましたが家はどこも焼け跡もなく不思議でした今は5000円の喜歓と新人のペット500の喜歓とお施餓鬼だけお願いしています。事務局も継主さまも腰が低く素晴らしい方達と
思っています。カルトとは全く違います私は自然に受け入れています。
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信者が「あまり熱心ではない」などというのは聞き飽きた感があります。
客観性を持たせたいという気持ちの顕れなのでしょうが、「熱心ではない」とか「×××と聞きます」とか、あくまでも外部から見た苑の印象が『悪いものではない』と言いたいのだという顕れです。


大体にして「不思議」だとか「奇跡」だとかで人を釣ろうとするものに、ロクなものなんてないのです。

その「不思議」を、手品のようにエンターテインメントで人に魅せるのであれば文句はいいませんが、実用性のあるできごととして信者は謳うのです。それが私は許せない。

「癌が消えた」と豪語するならば、真如苑活動をすればそれを『保障』してくれるのでしょうかね???
信者で「私は消えなかった」という人がいるならば、消えなかった理由を、上記のバカな信者は述べられるのでしょうか?

「真如苑は医者ではない」と、聞いたことがありますか?と、私は言いたい。

片方では「奇跡」として「癌が消える不思議」を謳い
もう片方では「医者ではない」と言って、病気を治せるわけではないと逃げる。

全く以て、その場その場の都合の良いことだけをヒラヒラとポリシーもなく言い放つ無責任は、辞めていただきたいものです。
<谷居>

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匿名返信 rrrさんへ

子供は正直なのだと思います。
母親に嫌われたくないという気持ちが、一番強いのかもしれません。そう思いながら、同時に真如苑活動に疑問も抱いていたのかもしれません。
どちらに対しても、とても素直な反応であるのだと私は思います。

何かをよすがに生きていくことは、私は悪いことだと思っていません。むしろそれを肯定して自分も生きています。そして信者だった頃の私は、霊能者になることで幸せに到達できると信じ、それを希求することを心の拠り所にしていました。

ただ真如苑はネットワーク系新興宗教ですから、そうした心の拠り所を求めるために、他人を巻き込まなくてはいけないのです。結局私は、会座に参座するために両親と会社の同僚を巻き込んだのです。

・お救けと称して他人様を巻き込むこと
・「真如苑だけが唯一無二」という絶対的な排他性

この二つがなければ、最低でも自分がだまされるだけで済み、人の営みとしての基本は守られると思います。

真如苑の都合を信徒に押し付けるのが三つの歩みです。
・運営と自らの贅沢、そして拡張のための資金集めが「歓喜」
・運営コスト削減が「ご奉仕」
・会員集めと拡張が「お救け」
という実態です。

そして、獲得した鴨から更に集金する手立てが「接心修行」です。
接心で脅しをかまして、更にまた小銭を集めるのが「護摩」と「施餓鬼」。
真如苑が信徒を拘束するための詭弁が「常住」と「意業」。

上記をムチとするならば、飴は下記。
・抜苦代受
・大事が小事、小事が無事
・霊能相承
・教員資格の付与
ただしそれらの「飴」は、全て実態のない空手形です。

飴に分類される、信徒を飽きさせないためのイベントは
・寒修行
・河口湖やハワイでの大護摩
・種々の大祭
等であり、大祭は全国の依処をローテーションさせてケーシュサマ(今の後継ぎが何と呼ばれているかは知りませんが)を地方に飛ばして、各地域の信徒を喜ばせるというマーケティング手法が採られています。
地域に出向いたり、ハワイに信徒を来させたりして、行ったり来たりのバリエーションで飽きさせないのです。

それらの活動に、威厳を持たせる手法が「密教」です。やらなければ解らないという表の意味は「わざと手法を見せずに隠す」ことで、空っぽの教義に奥行感を演出させるという事なのです。


奇跡だの、不思議だの、そんな言葉で人を煽るやり口が、まともな訳などないのです。
そこから抜ける今の勇気は、後の幸せに変わっていくと思います。

<谷居>





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匿名返信 Cさんへ

谷居です。

ブログに非公開でコメントをいただきました。

匿名にて返信させていただきます。


Cさん

反・真如苑ネットワークが導きだした一つの方向性は「行かない」「興味を示さない」「否定しない」です。

「行かない」とは、施設に出向かないこと、家庭集会という地域ネットワークに出かけないことです。
周囲を信者に囲まれると、正常な判断力を喪失します。家庭集会では十数名が一つの価値観で動いていますし、施設においては数百人・数千人が一つの価値観で動くのです。その様は異様にも思えますが、同時に「これだけの人たちが良いというのだから、もしかしたらここ(苑)は、悪い所ではないかも」と思えてしまうのです。

「興味を示さない」とは、相手に真如苑の話題をさせないことになるからです。教徒は真如苑こそが唯一無二でそこでしか幸せになれないと確信していますから、興味を示せば怒涛のように真如苑の良さをまくし立て、さらには「一度お寺にいきましょう」ということになるからです。

「否定しない」とは、話をややこしくしないため。そして何より教徒に逆切れさせないためです。これは特に、身内や大切な人を苑から引きはがそうとする時に重要なやりかたで、否定すればするほど、教徒は苑にのめり込んでいくようにマインドコントロールされているからです。


苑信者にとっての身内の病気とは「因縁」という事象であり、ご先祖様の苦しみそのものだと捉えるのものです。
真如苑には『接心修行』という霊媒修行があります。それは真如霊界という『あの世』にいる教主の長男・次男が霊界で相談をし、霊能者にそれを伝え、その『霊言』を霊能者が教徒に伝えることで教徒が心を磨くとい位置づけられた修行です。
その修行において、時折ご先祖様の苦しみが示されるのです。「かつて肺の病気で苦しんでいるご先祖様が示されます」などという霊言で、供養するように推奨されます。

この霊言においては最初に直接「肺の病気」とは言わないことが一つのポイントになっています。「胸の苦しみが示されます」と言うのです。
胸の苦しみと聞くと、その解釈はいくつかに分かれます。「肺の病気」「心臓の病気」「心の病気」「食道の病気」「胃の不調による胸のつかえ」「気がかりな出来事に『胸を痛める』きもち」などの多岐に渡るのです。
「胸の苦しみ」を特定する作業は、教徒に委ねられます。抽象的な霊言を、教徒は経親と協議することで、具体化させて行きます。

「胸の苦しみ」「頭が重い」「足もとが揺らいでいる」など、抽象的な霊言はいくつも示され、その都度何かしらの思い当たる節を教徒は思い浮かべます。そんなことを何度も繰り返していくうちに「霊言はすごい。真如霊界は何でもお見通しだ」と確信するようになります。それはコールドリーディングと言われている手法そのものなのです。

教徒にとっての身内の病気とは、そういった霊言で示されるご先祖様の苦しみであり、ご先祖様は喋ることができないから「事象」という現世の子孫に表出する苦しみによって「私の苦しみを判ってほしい」と嘆願している状態という解釈になるのです。
そのご先祖様をご供養できるのは真如苑だけなのです。なぜなら、ご先祖様の苦しみを掘り下げて示してくれるのは真如苑だけだからです。

病気や不仲など、トラブルは「事象」で括られます。だからこそ、そういった情報を教徒が聞きつけたら「一度お寺にいきませんか?」と相手を引き込むことになるのです。

相手に対して自分の不幸や身内の病気などを語らない、弱味を見せないことが必要になります。

「行かない」「興味を示さない」「否定しない」それと「弱みを見せない」という距離感であれば、教徒の方とは普通にお付き合いを継続することはできるでしょう。

それでもその方は「あなたを救い出してあげたいのにな。。。」と、常日頃思っているのです。『上から目線』のその発想は『選民意識』から生まれるので仕方ないことです。

私も、信者時代は同じように考えていました。「相手を救い出してあげたい」という願いは、思いやりではなく傲慢だと気付かないのです。

<谷居>

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匿名返信 Kさんへ

谷居です。

非公開でコメントをいただきました。
匿名のままで、返信差し上げたいと思います。


Kさん

真如苑は恐怖心を煽り、それを植え付ける事で、信者に依存させるように仕向けています。
ですから、あなたが今感じている「やめたら何か良くない事が起こるかも」という気持ちは、私は痛切に理解できます。
けれども、人生良いこともあれば悪い事もあります。真如苑を辞めたからといって「何も起こらないか?」と訊かれれば、「少なくとも真如苑のたたりのせいで起きる悪いことはない」と言えるでしょう。決して「悪いことなど起こらないですよ」などとは言えるものではありません。
けれども真如苑は、信者の身に降りかかる災い事を、真如霊界から見据えて「人間の都合ではなく、如来に則って」という設定で、消徐してくれると言います。

ただしそれには条件が幾つもあり、それらの条件は後から後から、増えていくばかりであり、その条件をクリアして行き着く先は「霊能者になり、世のお遣え人になる」というものになるのです。

「世のお遣え人」とは語感の響きは良いですが、その実態とは何のことはなく、真如苑の都合のままに日々を過ごす事を強要されるに過ぎません。

霊能者になれば救われると思い、懸命に修行する信者たち。その身に不幸が降りかかっても「霊能者にさえなれれば」という希望の下、日々の苦難を乗り越える事ができます。
霊能者になった信者にも、不幸は降りかかります。でも霊能者には真如の力が働き、必ずやこの苦難は乗り越えられると確信し、日々を懸命に過ごして乗り越えて行くでしょう。

それらを俯瞰で見てみれば、「真如苑をやっててもやらなくても同じ事」だと解ると思います。

私は、お袈裟やバッヂ、寝転んだ仏像の写真などは、それぞれ分別してゴミに捨てました。教書関係などの書物は、参考資料としてとってありますが、内外時報(当時はその名前です)と歓喜世界は資源ゴミにしました。

所詮詐欺的団体の、いい加減なマテリアルですから、ただのゴミとして問題ないレベルです。


信者を辞めるには、苑に出向かなくても苑費を払わなければ何年かで自動的に消滅します。あなたが苑に出向いて、諸々の手続きを通じて除籍しても、その事はあなたの経親に知れ渡りますし、除籍されても名簿は残るらしいので、手続きの手間だけ無駄だと私は思います。

私は所属が3人、そして種まき相手が何人かいましたが「今まで真如苑に騙されていました。すみません」と、全員に頭を下げました。


あなたの経は、あなたやあなたの所属を「堕ちた人」として隔離するでしょう。
もしかしたら最初のうちは、信仰障害霊だの、因縁のままの人生を歩む事になるなどと脅しを入れてくるかもしれませんが、そこは毅然としてご自身を保ってください。

かつての私の経親などは、その人の子供が事業に失敗したり、はたまた会社をクビになったりと、ハッキリ言ってろくなものではありませんでした。事業の失敗を穴埋めするために、お金の苦労も相当している様子でした。けれどもそういった自分たちの苦難を真如苑の親苑の改修工事になぞらえて「今は掘り起こしの時だから、色々な問題が噴出する」と言い訳のような事を言ってました。

苦難は誰にでも訪れますし、それを乗り越えることも誰にでもできる事なのです。それは、真如苑などとは全く以て関係ない出来事であると確信しています。


時には、人の生き死ににまで影響を与えると教徒に錯覚させることで、真如苑は少額のお金を継続的に搾取し続けます。その手法はマインドコントロールそのものであり、非常に悪質なものです。

『常住』という観念で、苑施設から離れた信者をコントロールします。
『意業』という観念で、真如苑に対して僅かな疑問を抱くことも制限させています。

どうか、真如苑の手口を冷静に分析なさって、これ以上傷口を広げないようにしてください。

私は、真如苑をやめてから三年かかってようやくまともな生活のスタートラインに立つことができました。これからが、本当の人生の始まりで、山あり谷ありの人生だと思っていますが、他力本願ではなく、地道にやっていこうと心に決めています。


自分自身、20年近く時間とお金を割いていた真如苑活動に後悔がないかといえば、それはあるのでしょうけれども、もうそういう風には考えないことにしています。
今はただ、自分の恥を世に晒してでも、悪辣な真如苑のやり口に騙される人が減ることを願っているだけです。


以前にも記事にしたのですが、真如苑はこれからますます、活動のハードルが低くなって行くことでしょう。それは「キヨーシュサマのミココロ」とか何とか、適当なそれらしい理由をつけて教徒に告げられていくことになると思います。今はネットの普及により、簡単便利に、そしてタダで様々な情報を得ることができる時代です。もちろんその情報は玉石混合であり、取捨選択の確かな眼力が各々に求められるものなのですが、そういった風潮の中において難解な教義を説いてみても、厳しい修行を強いてみても、教徒はそこでネットのコミュニケーションでもって最初に回答を得ようと試みる時代なのです。
そして、そのネット上では今まで苦汁を舐めさせられていた元信者や、苑の被害を受けている人たちが、確かな情報を発信しており、その情報に触れることであなたのように疑問が確信へと変わっていくことになるのです。
私も、そのようにして目覚めることができたラッキーな人間です。ですからせめて、このようにして自らの恥を晒すことで、情報発信をしているに過ぎません。

そのような中、ブログに共感いただけたことは素直にうれしく思っています。

どうか、ご自分の直感を大切になさってください。そして安っぽい脅しに屈することなく、毅然と過ごしてください。「これって、真如苑を辞めたせい?」と、悪いことが起きた時にあてはめてしまったら、それがあなたの中の確信に変わってしまうでしょう。けれども私が見聞きする限りにおいて、真如苑を辞めて不幸になったという話しはありません。むしろ逆でスッキリと過ごせるようになったと聞きます。そして何より私自身、そのように思っているのです。

信者は、真如苑活動をよすがとすることで自浄するのかもしれません。それはそれで、私ごときがとやかく言うことではないと思っています。許せないのは、そのよすがに無関係な他人を巻き込もうとすることです。それは、あなたがあなたの所属に対して行ったことであり、私も同様に、3人の人に対して犯した罪なのです。

<谷居>

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